新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2022.04.7
進撃のY(矢部光太朗)
サッカー選手。1991年生まれ、東京都出身。千葉大学理学部物理学科中退、横浜国立大学理工学部中退。小学6年生から地元クラブでサッカーを始めるが、高校時代はサッカー部で公式戦に出場することができず、大学進学後はサッカーから離れる。24歳のときに「やっぱりサッカー選手になる」と決意し大学を中退。約7年のブランクを経てサッカー部に入部するために横国大を再受験し、5年後にオーストラリアのセミプロリーグのチームと契約する。サッカーをプレーする傍らで、YouTubeチャンネル『進撃のY / Y’s Rebellion』は登録者数12.6万人を誇る。著書に、サッカー選手になるまでの物語を綴った『ゼロからの進撃 1,000,000回への挑戦』がある。
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――進撃のYこと矢部さんと言えば、「もしもヘタクソがキックを100万回練習したら?」という100万回のキック練習を撮り続けたシリーズなど、サッカー関連の動画が非常に有名です。そもそも、サッカーを始めたきっかけは?
小学5年生のときにサッカーと出会いました。児童館という放課後に子どもたちが集まる遊び場のようなところで、友だちに誘われて遊びでサッカーをしたんです。自分とボールという関係だけに没頭できる瞬間がとても新鮮でした。夢中でボールを追いかける感覚が癖になって、サッカーに熱中していったという感じです。
――最初は友だちとの遊びからだったんですね。それからすぐにサッカー選手を目指し始めたんですか?
そうですね。小学生でまだ常識もないので、ピュアにサッカー選手になりたいなと思っていましたね。
――当時はどれくらい練習を?
始めたころは、一日8時間くらいリフティングをしたりしていました(笑)
――小さなころから努力家だったんですね。
意識的に練習をしていたわけではなく、とにかく楽しくてやっていただけなんですけどね。
でも、実はサッカーを始めるまでは、何かに熱中したことがない子どもだったんです。週末はテレビを見て過ごしたりするだけで。自分から「これをしよう!」と決めて何かをすることはほとんどありませんでした。
サッカーが初めての熱中できるものでした。
――それだけ強烈な出会いだったんですね。ただ、その後中学で入ったサッカー部で、サッカーへの情熱を失いかけたとか。
そうなんです。小学生のころは楽しくサッカーをやっていただけでした。でも、中学生になって冷静に自分の実力を考えたとき、「このまま普通にやっていたら、サッカー選手になるのは難しいだろう」と現実が見えてしまったんです。また、チームでの指導も厳しく、怒られるのが怖くて委縮してしまい、サッカーを楽しむこと自体もあまりできていませんでした。いま思えば、厳しすぎるということはなく、当たり前の指導だったと思うのですが。
――情熱を失った状態から抜け出せたのは何がきっかけだったんでしょう。
テレビで高校サッカーの大会の決勝戦を見たんです。私立の修徳高等学校(以下:修徳高校)と都立三鷹高等学校(以下:三鷹高校)※の対決でした。
修徳高校と言えばサッカーの名門校です。サッカー選手も多数輩出していますし、スポーツ推薦などもあります。かたや三鷹高校は都立高校で、強豪ではあるもののスポーツ推薦などはありません。グラウンドなどの設備も修徳高校に比べて限られています。それでも、努力して修徳高校と戦えるチームになっていました。そんな背景を試合から感じたんです。
自分も三鷹高校に行けばサッカー選手として成長できるかもしれないと思い受験を決意しました。それから、毎日10時間くらい勉強して、無事合格することができました。
※現・東京都立三鷹中等教育学校
――無事三鷹高校に入学されたわけですが、強豪校ということもあって競争は激しかったのでしょうか?
三鷹高校は、部員が多くレベルも高いので、レギュラー競争は激しかったです。当時は、チームでの練習はもちろん、自主練習も懸命にしていました。一時期は、オフの期間でも朝5時に起きて、それから夜までずっと自主練習していたくらい。それでも、残念ながら高校の間は公式戦に出場することはできませんでした。
――中学のころのように、サッカーへの情熱が失われてしまうことはなかったんですか?
正直、サッカー選手の夢を諦めかけたことは何度もありました。それでも諦めずにいれたのは理由があって。
高校2年生のときに三鷹高校が全国大会に初出場したんです。出場したのは自分ではなくトップ選手たちではあるんですが。
そこで、町の人たちが応援する姿や観客の熱狂を間近で見ることできたんです。それを見たときに、努力で得た力をきちんと発揮することができればこんな風に認めてもらえるんだと衝撃を受けたんです。
この「努力すれば認めてもらえる」という感覚は、自分の人生に大きな影響を与えていると思います。
――三鷹高校を卒業されたあとは?
サッカー選手の夢を諦めたわけではなかったのですが、夢の実現可能性は低いかもしれないと冷静にも考えていて。サッカー選手になれなかったとしても別の道を探せるようにと大学進学の道を選びました。
成功体験を得るために東京大学を目指したんですがうまくいかず浪人することに。
実は、この浪人時代に、光線過敏症という病気になり、日光を浴びると目に痛みやかゆみが出るようになってしまいました。あまりの目の痛みに、もしかしたら失明するかもしれないと落ち込みました。
だけど、落ち込むだけ落ち込んだら吹っ切れてきて。目が見えなくても、生きてれば社会に貢献することはできるだろうと思えてきたんです。エドガー・ダービッツという緑内障でありながらゴーグルをつけてサッカー選手として活躍している人もいます。自分もダービッツのようにゴーグルをかければいいやと思って立ち直りました。ちなみに、いまは光線過敏症はほぼ完治しています。
――受験中に大変な思いをしたんですね。
その後、2浪の末千葉大学に入学をしまして。高校のころに自分の課題は基本的な身体能力にあると感じていたので、まずは肉体改造に取り組みました。集中してしっかりフィジカルを鍛えた方が長い目で見ると良いと思っていたので、あえてサッカー部には入らず、ボールを蹴る時間も最小限にしていました。高校時代に55㎏だった体重を一年間で83㎏まで増やし、その後3か月かけて余分な脂肪を落とし、67㎏まで減らしましたね。
――筋肉を12㎏も増やしたということですね。
おかげで相手とぶつかっても簡単には倒れないパワーが手に入りました。ただ、正直なところ、それでも自分の理想の体にはほど遠かったです。
――何が足らなかったんですか?
パワーは付きましたが、スピードが付かなかったんです。僕はフォワードと言う、主に攻撃を担当するポジションの選手です。フォワードの選手は、戦術にもよりますがパワーだけでなくスピードも求められます。もちろん、スピード対策のトレーニングもしていたんですが、いま思えば、割く時間が少なすぎたのかもしれません。
――他のスポーツもそうですが、サッカーも選手を目指すには加齢に伴う肉体の変化の問題があると思います。サッカーはやめて他の道にという考えはなかったですか?
ありました。千葉大学時代は物理学科だったということもあり、物理学にも真剣に取り組んでいました。物理学を学ぶことも楽しかったので、学問の道に進もうかと思ったことも。
でも、やっぱりサッカーの方が夢中になれたんです。いまだにサッカーを始めた小学生のころのように夢中になれる瞬間があります。
千葉大学に入ってから既にある程度時間が経っていたので、改めて別の場所でサッカーチームに入って、サッカー選手を目指すことにしました。社会人チームというのも考えたんですが、より長く練習時間が取れて、セレクションもない大学サッカーを選びました。それで、24歳で横浜国立大学に入学して、サッカー部に入部しました。
――YouTubeで「もしもヘタクソがキックを100万回練習したら?」などのサッカーの動画の投稿を始めたのもこのころですよね。
横浜国立大学の1年の冬に始めました。
これまでは、どれだけ練習したらどのくらいうまくなるのかがわからない中で、練習を続けていくことに不安がありました。サッカー選手になれていないのは才能の問題の可能性もありますが、もしかしたら練習量が圧倒的に少なかったのかもしれません。
そこで、「100万回のキック練習」という目標を立てて、練習量を確認できる形で練習しようと思ったんです。100万回という目標を設定することでいまの経過地点がわかりますし、これくらいの量の練習でこれくらい上達したというのもわかります。
――なぜ100万回のキック練習をYouTubeで発信しようと思ったのでしょうか。
公開することで、昔の自分のように悩んでいる人も、上達のイメージがしやすくなるだろうと思いました。それによって、自分の未来を信じられるようになる人がいるんじゃないかなと。
――「人の役に立ちたい」という考え方が何度か出ていると思うのですが、ご自身としてもそこは重要なポイントですか?
自分のためだけにやっていたときは、あまり物事がうまくいってないんです。高校ぐらいまではサッカーをやりたい、好きなサッカーでお金をもらいたいというのがモチベーションでした。でも、自分のためだけだと応援してくれる人もあまりいません。
人のために何かをやると応援してくれる人も出てきますし、頭の中に「誰かの役に立っている」という気持ちがあるとモチベーションに繋がります。
いま思えば、光線過敏症になったことが人のために何かをやろうと考える最初のきっかけだったかもしれません。当時は、「もし目が見えなくなったら、自分は社会に必要とされるのか」という想いがありました。でも、「目が見えなくなっても、社会のために何かをやって必要とされる道はある」と思えたときに、自分の中で生きる活力がわいてきました。光線過敏症の経験は大きなターニングポイントだったのかもしれません。
――横浜国立大学のサッカー部で4年間サッカーをしたあと、オーストラリアでサッカー選手になるわけですがどういった経緯だったんでしょうか。
大学を卒業したあとはYouTubeの活動を続けつつ、サッカーの練習を継続していました。横浜公立大学のサッカー部時代からの知り合いに、オーストラリアで活躍するサッカー選手の土肥良太さんがいたんです。土肥さんが日本にいるときに一緒にトレーニングをさせてもらいました。土肥さんは、個々の選手の得意不得意は身体の構造に原因があるという考えを持っていました。自分に必要だった「突破力」や「ボールキープ力」などが出るよう、体の構造を書き換える練習を土肥さんと一緒にしました。具体的な練習方法は企業秘密なんですが(笑)
――千葉大学時代にやりたかった肉体改造を今度は土肥さんと一緒にやったわけですね。
そうなんですよ。土肥さんに見てもらうことで、大学時代よりも、目標に向けて理にかなったトレーニングをすることができました。
その後、まずは海外でサッカーをする経験を積むためにまず日本から近いタイに行きました。グーグルマップでサッカー場を探して、その場で「サッカーやりたいんだけど」と話しかけにいってプレーしました。
――すぐに海外に行ったんですね。なぜ日本ではなく海外に?
オーストラリアでプレーしている土肥さんが「海外のサッカーは楽しい」と言っていたんですよ。
オーストラリアなどは日本と比べて「目の前の相手との勝つか負けるかの一対一の勝負」が重視されると聞いていて。それが僕には魅力的でした。
それで、海外のサッカーを体験してみたいと思って。
――サッカー選手になるために海外に行ったというより、海外でサッカー選手になったら面白そうという流れだったんですね。
そうです。タイに行った数か月後、今度はオーストラリアに行きました。まずは土肥さんと一緒にゴールドコーストに行って、色々なチームの練習に参加したんですが、契約には繋がらなさそうでした。
次に日本で一緒にプレーしていたサッカー仲間がメルボルンにいたので、そちらへ移って彼が練習しているチームに混ぜてもらい、契約を目指しました。ただ、初日の練習の自分のプレーがひどくて。これは絶対契約できないなと。
でも、週末に試合があったんですが、そこでなぜか試合に出れて。しかも、得点を決めることができたんです。
――どんなシュートだったんですか?
味方がななめ後ろから大きなパスをくれて、届くかどうかぎりぎりのところにダイビングヘッドを合わせてゴールしました。
――それは劇的なシュートですね。
いままでのサッカー人生で決めたことのないようなシュートでした。千葉大学時代のトレーニングや横浜公立大学でのチームの練習、これまでの自主トレーニングなどがなかったら届かなかったかもしれません。いままでの人生全部でつかんだゴールだったなとあとになって思いました。
――確かにそうですね。実際に契約が決まったのはいつだったんですか?
シーズン開始直前の練習のときに呼び出されて。社長が「君は非常によく頑張っているから、一番最初に契約したい」と言ってくれたんです。
「まじか」と思って。
何とか契約できればという気持ちだったので、まさか一番最初に選んでもらえるとは思っていませんでした。そのときにいままでの記憶がフラッシュバックしてきて「本当にいままでやってきてよかったな」と思いました。
契約書もすぐにサインがしたくて、ろくに読まずに書いてしまいました(笑)
――――苦難の連続の中で、サッカー選手になるまで諦めずに努力を続けられたのはどうしてだったんでしょう。
諦めかける時期は何度もありました。でもそこから立ち直ることができたときって、自分の「小さな成長」に目を向けられたときだと思うんです。
たとえば、「今日はちょっとパスがうまくなったな」とか「ちょっとだけ走るのが早くなったな」とか。この小さな成長を繰り返していけば一歩一歩でも前には進めるぞと。
小さな一歩を1年とか10年とか積み重ねたら、いまの自分が想像できないようなところに行けるはずだと思って。それに、そう考えていたら、いま踏み出す一歩にも身が入ります。
小さな成長に目を向けることで、未来が少しだけ信じられるようになるんです。これが一つの大きな原動力になったと思います。
もう一つは、自分の人生を一つの物語として考えたとき、いまサッカー選手を目指すのに絶体絶命の状況だとしたら、ここからサッカー選手になれたらすごい面白い物語になると思うんです。
もしその物語が完成したら、一つの実例になります。すると、それを見た人が僕も私もと、新しい物語を作ってくれるんじゃないかなと。
そうすることで、自分のいま置かれている逆境を引きで見ることもできますし、いまの努力には価値があると思えるようになります。
――長年の夢だったサッカー選手になることができましたが、次の目標はあるんでしょうか?
オーストラリアでは、新型コロナウイルスの影響で、リーグ戦が中止になったりとすべての試合を行うことはできませんでした。
また海外でサッカーをしたいと思っているので、今度はヨーロッパに行こうかなと考えています。
――ヨーロッパを選んだ理由は?
ヨーロッパは人々の暮らしの一部になるくらいサッカーの人気が高いんです。以前から「いつかヨーロッパでサッカーをやってみたい!」と思っていました。
――ヨーロッパでの活躍も楽しみにしています!最後に、矢部さんのように、長期間努力をし続けるにはどうすればよいか、アドバイスをいただけますでしょうか。
まずモチベーションを持とうとする対象の選択が大事だと思います。皆さんいままでの人生を振り返ってみると、何か夢中になったことがあるんじゃないかなと思います。たとえば、人を笑わせるのが好きだとか、料理が好きだとか。
いまはゲームをやるのも職業にできる時代です。自分が熱中しちゃって、やめろと言われてもやってしまう、本当に自分が熱中できるものを見つけることが重要だと思います。
――ありがとうございました!
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この記事を書いた人
ミズタ
やる気ラボライター。趣味は映画と音楽。インタビューとコラムをメインに書いています!