新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
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仕事・働き方
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梅原大吾/Daigo Umehara
1981年5月19日生まれ。2010年4月、米国企業とプロ契約を締結、日本初のプロゲーマーとなる。同8月「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」としてギネスブックに認定される。2016年、さらに2つの認定を受け、3つのギネス記録を持つ。世界最大の格闘ゲーム大会『Evolution Championship Series』(通称 EVO)で2003&2004年、さらに2009&2010年と2年連続優勝を果たし、2度に渡り歴代記録を作った。2013年には5年連続ベスト8入りし、同大会における大会歴代記録を更新。誰もが認める「世界最強にして最高」のゲーマーとして、その一挙手一投足は国内外から熱い注目を集めている。現在、レッドブル、ハイパーエックス(HPのゲーミングデバイスブランド)、ミルダム(DouYuの配信プラットフォーム)3社の個人スポンサードを受けている。
――ゲームを始めたのは、5歳くらいからだったそうですね。
姉が「ファミコンというのはすごい面白いよ」と教えてくれて、まだ右も左もわからない子どもですから、姉の言うままにゲームに興味を持ったのが5歳くらいでしたね。家でやるか、ゲームセンターでやるかの違いはありましたけど、ゲーム自体は、その頃からこの年まで、ずっとやっていますね。
――ゲームセンターに通うようになったのは?
初めて行ったのは11歳でした。『ストリートファイター』という格闘ゲームがブームになって、本来であればアーケードゲームは、ゲームセンターでしかできないものだったんですが、ブームになったので、駄菓子屋とかレンタルビデオショップとかにもゲーム機が置かれるようになったんですよ。
当時は「ゲームセンターは危ないところ。不良がいるから行っちゃいけない」と学校の先生や両親に言われていたので行くことはなかったんですが、自分の生活範囲にそういうゲーム機が置かれるようになって目に入るようになっちゃったんですよね。それで、アーケードゲームに急激にハマりだしたのが11歳ぐらい。
最初は、たまにお金に余裕があるときにゲームセンターに行ってゲームをやる程度だったんですが、14歳ぐらいですかね、本格的にゲームセンターに通うようになりました。それまではちょいちょいプラモ屋とか駄菓子屋で遊ぶぐらいだったんですが、強い人が全国から集まるゲームセンターに電車に乗って遠征するような生活が始まって、22歳ぐらいまで変わらなかったですね。
――大晦日と元旦以外は、ほぼ毎日行っていたとか?
そうですね。1年間363日、ゲームセンターに通っていました(笑)。中学、高校と部活もやらず、本当にもう余った時間は、9割以上ゲームでしたね。
――15歳で日本一になって、17歳でアメリカの大会で世界一という偉業を達成します。ゲームにそれほど強く惹かれたのは、どんなところだったんですか?
ひとつは、勝負するまでの早さですね。将棋とか囲碁、麻雀は、相手を探して、始めるまでに結構時間がかかるじゃないですか。でも格闘ゲームが世に出てからは、ゲームセンターに行けば、挨拶も何もいらずに、お金を入れさえすれば、勝負が始まるっていう世界になったんですよ。どっちが強いのか、上なのか、即座に判断してくれる。そこに惹かれたところはありましたね。
――ただ一方で、当時はゲームのプロという概念すらなかった時代でしたよね。将来については、どのように考えていました?
考えないようにしていたのか、考えられなかったのか、両方ですね。今、このときをとにかく一生懸命にやるという質なので、(ゲームの)取り組み自体はすごく集中してやっていましたけど、先のことは考えていなかったんですよ。とにかくゲームが好きで、楽しくて、夢中になっていました。
当然、親や先生、友達からは「将来どうするつもりなんだ?」と。勉強はしないし、プロスポーツの世界を目指すわけでもないし、何を考えているんだろうと、まったく理解されていなかった。
それはそうですよね。ゲームをやっていることは、親は知っていましたけど、学校では言っていなかったので、世界チャンピオンになったことも誰も知りませんでした。言ったところで「だから何なの。そんなの遊びでしょ」と言われて終わりなので、言ってもしょうがないというのがありましたから。
高校卒業後もアルバイトをしながらゲームセンターに通う生活を続けていましたが、みんなが将来に向けて進んでいく中で、自分はまったく将来に繋がることをしていなかったので、焦りとか自分や家族に対する罪悪感がかなりありました。
――どんなモチベーションでゲームを続けていたのですか?
最初は「うまくなりたい」とか「世界一になりたい」とか、ごくごく普通のモチベーションでしたが、途中でその目標みたいなものが達成されて目指すものがなくなってしまったんです。全国大会で1位になったり、アメリカに行った世界大会はテレ東でテレビ放映もあったんですよ。
ゲーム業界というか、格闘ゲームが好きな連中からすると、まあ名のしれた存在にはなったんですが、それ以降はなんでしょうね… この格闘ゲームの世界で一番という位置を維持していけば、小さな世界ではあるんですけど、何かが変わるんじゃないか。そんな密かな期待があったんですよね。具体的に言うと、ゲームで食べていけないかな、自分の人生が変わらないかな、と。
――ところが、全国大会を3連覇した後、ゲームから一度、離れてしまいます。
ゲームを続けていれば、何かあるかもしれない。それが何であるかはわからないけど。そう思って努力を続けてきたけれど、「たぶん何もない」って諦めがついたんですよね。当時は当然、仕事にならないですから。「ああ、結構頑張ってきたけど、これはもう何も起きないだろうな…」と思った。
その頃は飲食店でバイトをしていましてね、同い年の従業員が僕含め4人いたんですよ。僕らは22歳、大学を卒業する年でしたから、彼らはみんな辞めていく。「そうか、普通はこういう年齢っていうのは、こうやって社会に出ていくんだなあ」と実感して、進学をしなかった自分との違いを見せつけられた感じがしました。それで「いよいよタイムリミットだな、ゲームはやめよう」と。
ゲームをやめた後は、麻雀を3年ぐらいやりました。プロにもなりましたし、自分の中では納得のいくレベルまでは行ったんですが、簡単に言うと自分には向いていないとわかり、この世界もやめました。
その後に仕事を探したら、もう年は26、27ですよ、働けるところがないんですよね。学歴もない、経験もない。医療関係に勤める両親が介護の仕事をやってみたらどうかと勧めてくれ、 親を通して子供の頃から馴染みがあった介護の仕事は自分にしっくりくる感じがありました。
――重度の認知症の方が入居する施設に就職されたそうですね。どんなところがしっくりきたのですか?
僕は、好きなこと、例えばゲームや麻雀は、自分自身でも集中力を持ってやっているとわかるんですが、そうじゃないことは本当に浸透していかないんですよ。ゲームをやっているときのような集中力が出せない。子供の頃からそういうところがあって、本当に社会に馴染めないなあと思い続けてきました。ゲームをやめて以降は、さらにどんどん自分に自信が持てなくなっていきました。
でも介護の世界は、自分みたいな人間でも受け入れてもらえた。誰かと競争することもないし、人のために尽くすというのはいいなあという感覚もありました。介護職は、長くやっていると肉体的にも精神的にもいろいろな支障が出てくるのは確かです。特に認知症の患者さんの世話をしている人は、肉体労働とは違った精神的な辛さがあると思います。あと大きなところでは、給料の安さも大きな障害ですね。
でも僕にとっては、給料も精神的な部分も、全然苦にならなかったんですよ。残業のように勤務時間外の拘束もないので、自分の自由な時間があることもありがたかった。介護職で正社員になれたことで、ようやく社会の中で、自分がいても良さそうな場所を見つけられた。
――でも、再びゲームの世界に戻っていかれるんですね。
一回ゲームをやめてから、本当にあの若いときの時間、社会に出ていく準備をしていなかったことはハンデを背負う行為だったんだなと痛感して、ゲームはもう絶対にやらないと決めていたんです。ゲームをやめて、いざ働こうと思っても、若いときに積み上げてきたものが何もないから、働く場所がないし、世界も狭い。そんな現実に直面しましたから、ゲームはもう自分にとって害でしかない。この年で若いときのように熱中したらシャレにならない、とにかくゲームはやらない、ゲームセンターにも行かないと徹底していました。
ところが、新しいゲームが出るということで、昔のゲーム仲間が誘うんです。最初は断っていたんですが、執拗に誘うので断りきれなくなって、まあちょっとくらいはいいかなって、ゲームセンターに行ってしまったんですよね。そしたら懐かしい空気と、あとはやっぱり、ひさしぶりに格闘ゲームをプレイできてすごく楽しかった。ブランクがあっても勝てたんですよ。
そのときに、「ああ、自分にも特別なものがあったんだなあ…」と思えたんです。 なにひとつ誇れるものがなく日々生きてきたけど、こんなに得意なものがあったんだなあと。それで趣味としてならやってもいいかなと思えるようになったんです。若いときは「絶対にやらない」って意固地になっていましたけど、まあ趣味でちょっとやるぐらいならいいかなと考え直した。
――だけど、世界が放っておかなかった?
そうですね。世間はそうじゃなかったんですよね。「あいつが帰ってきた!」と大騒ぎになりました。国内もそうですが、特に海外ではものすごい騒ぎになってアメリカから招待されるんです。本来は日本と韓国とアメリカのチャンピオンが三つ巴で戦うイベントだったのに、そこにダイゴを加えようと4人のリーグ戦になったんです。勝ったら夏の世界大会に招待というイベントで全勝して、世界大会に行くことになったんですね。
その世界大会も優勝すると、最初にスポンサーになってくれたアメリカの企業が「ダイゴが今まで姿を消していた理由は、どうやら生活のことらしい。またいなくなるのはコミュニティにとって損失が大きいぞ」 「僕らがスポンサーになるから、ダイゴはゲームに集中しろ」と、そんな流れだったんですよね。
――プロ契約のオファーを受けたときは、どう思われたんですか?
夢みたいな話だなあ、と思いましたよね。ゲームだけをして生きていくことは、一度は完全に無理だと思って諦めたことでしたから。とはいえ、いくら、ようやく夢がかなったとはいえ何の保証もない。そうやって保証のない道をまた進んで、またそこで感覚が狂って中毒みたいになって、そこから社会に戻って「まとも」に行きていけるように自分を軌道修正するのに相当な労力を費やすことになる…。どうしようか長いこと迷いました。その時、もう30歳に近かったんですよ。
でもそれまでの30年間を振り返ると、自分にとって特別だと感じられるのは、ゲームしかなかった。リスクはあるにしろ、これをやらずに生きていくのは、いつか必ず後悔するだろう。本当に「何度目の正直なんだよ」「またそっちの道に行くのか、おまえは!」という葛藤がありましたが、本当にラストチャンスだと思って、とにかく全力でやろうと決意したんです。
――2010年4月に米国企業と契約すると、8月には「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」としてギネスブックに認定。世界最大の格闘ゲーム大会「EVO」では、計4回のカテゴリー優勝。2019年4月には『Newsweek Japan』誌で「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれました。日本で初めてのプロゲーマーという道を切り開けた理由は、何だったと思いますか?
ひとつは、タイミングですね。たとえば20代前半くらいのときに、もしプロゲーマーという職業があったとしたら、当時の実績だったらすんなりプロにはなれていたと思うんですね。ただ、もしあのときにプロになっていたとしても、うまくいかなかったんじゃないかと思いますね。
やっぱり20代そこそこでゲームをやめて、働く苦労を経験することを通じて挫折をたくさんしてきた。10代のときに、親や学校、社会に背を向けて生きてきて、20代でそのままプロゲーマーになったら、そのツケを払わずに生きていくことになったと思うんですよ。
でもゲームの世界を離れて社会に出てみたことで、その若いときのツケが返ってきて、「ああ、やっちゃったんだなあ…」っていう感じを身に染みて味わっているんですよね。
それはやっぱり屈辱だったし、辛かったし、自分に自信もなくなった。その期間があっての「プロとしてやってみないか?」だったので、今考えるとものすごいエネルギーが溜まっていたと思うんです。本当にラストチャンスだと思ったし、この道で評価されないんだったら、もう人生は終わりだと。他に得意なことなんか1つもないんだからって、100%の力で取り組んだと今振り返っても言えます。
――挫折した経験があったからこそ、夢を現実にすることができた?
そう思っています。もうひとつは、そういうゲームに対する熱が人一倍大きかったこと。もし自分の世界が注目されたら、世間のみんなが知らない世界だから、うまく説明できるようになろうとイメージトレーニングをずっとしてきたんですよ。もう10代半ばくらいから、来るべき日に備えて。
プロゲーマーになって、いろいろなメディアから取材されるようになったときに、最初からすでに自分の言葉が出来上がっていたんです。ゲームを知らない人がそういう記事を目にしたときに「プロゲーマーって何だよ?」という先入観があったとしても、「意外と面白いことを言っているな」と感じてもらえたんじゃないかと思うんです。それで、企業や大学も講演に呼んでくださっているのかなと思います。
――梅原さんのように、自分の行きたい道に進むには、どんなことが必要だと思いますか?
うまくいくかいかないかは、運があると思うんですよね。自分も途中までの話をするんだったら、完全に失敗ですよ。ゲームに熱中して人生を疎かにした典型的な例です。今があるからと、その失敗を肯定することが正しいとも思わない。運が良かった、それだけだと思います。だから、自分の好きな道に行って成功するかどうかは、これは一旦、横に置かなくちゃいけない。
好きなことを続けるうえで必要なのは何かといったら、自分で考え、自分で決めることです。この年になって思いますけど、人は他人には極端な生き方を勧めないんですよ。親はもちろん、先生や友達も。「好きなことを続けていいですか」と聞かれて「いいよ」なんて言える大人はいない。相手の人生がむちゃくちゃになってしまうであろうことを容認できるわけがない。ましてや、そうなってしまった後で「あなたが続けていいって言ったじゃないか」と言われても困るじゃないですか。だから他人には無難な人生を行かせたがるし、思い切ったことは言えない。
結局、自分のやりたいことをやる、と決められるのは、自分しかいないんですよ。周りはその人のことを思って安全な道を勧めてくるので、それはそれとして受け止めるとしても、それでも自分の道を行くんだっていう強い意志や、後悔しないんだっていう気持ちがあるかどうかです。
親がこう言ったとか、先生がこう言ったとか、その言葉の重みはわかります。でも人の言葉に従って生きると、ダメだったときに他人のせいにしたり、どこか言い訳ができる。自分に逃げ道を作る。だからこそ自分が好きなことをやるために必要なのは、自分で決めて、ダメだったときには、俺が悪かった、馬鹿だったと思う覚悟ですね。
結果は、すぐには出ないじゃないですか、1年、2年、ヘタすれば10年とか、もしかするともっと潜伏期間があるかもしれない。その間は誰にも相手にされないし、馬鹿にされる期間かもしれないけど、でも本当に好きで目指しているなら、気にならなかったりすると思うんですよ。いつか見返してやるとか、いつか俺は目標達成してやるっていう誰にも負けない気持ちがあれば、結構人間平気になってくる。
だから、たとえ最初は周りから白い目で見られても、自分の気持ちに正直に生きるということですね。一回しかない人生なんだから、それしかないと思います。
――梅原さんがプロになって10年、ゲームに対する世間の見方も大きく変わりました。今では進学校にもeスポーツの部活があったりします。ゲームで学べるのは、どんなことだと思いますか?
そうですね…(黙考)。ひとつ言えるのは、強いゲーマーは全員ロジカルですよね。感覚で勝つのは、ほとんど不可能なので。「こうしたら、こうなる」と論理的に考える必要があるんです。ただ、それは結果としてロジカルなやつが勝っているだけで、ゲームをやるからロジカルになるわけではないと思うんですよね。だからゲームをやることで何かが養われるかどうかは……僕にはわからないですね。
ただ、僕の場合は、ゲームを通して、論理的に考えるようになったし、ゲームを通して、努力ってこういう風にやるんだって気づいたし、ゲームを通して、こういう人が評価されるんだな、注目されるんだな、ということも学んだ。それは他のことからでも学べるとは思いますが、大事なことはほぼすべて、ゲームを通して学びました。
ゲームが他のスポーツと違うのは、コーチや監督がいないところです。プロのチームになると、コーチや監督がついたりもするんですが、基本的には自分で考えて、自分で操作するんですね。野球やサッカーはこういうトレーニングをしようとか、こういう風にプレーしろとか、そういう指示があるのに対して、ゲームの世界はそれを全部、自分でやります。ゲームの場合は、身体能力だけ高くても、戦略がなかったり、知識が不足していたりすると勝てない。だからバランスが求められる。そこが単純に肉体的スポーツとは違うのではないかと思います。
――成功につながった自分の長所は、どんなところだと思いますか?
前向きなところですね。落ち込んで何かしばらくできなくなるというのは、まずないです。他の人がショックを受けるような場面でも、気持ちを切り替えて次に行くんですよ。子供の頃からそうでした。
なんでそんなに前向きになったかというと、子供の頃から「死にゃしない」っていう両親の口癖を聞いてきたからだと思います。何か嫌なこととか、怖いこととか、不安なことがあっても「大丈夫だよ。死にゃしないよ」と特に父が言うわけです。それが子供の自分をホッとさせてくれたんです。
すごく心配だし、どうなっちゃうんだろうと思うことがあっても、たしかに死にはしないな。人生まだまだ先も長いし、それを考えたら大したことじゃない。そんなに重く捉える必要ないんだなと思えるわけです。
それは大人になっても変わらずで、嫌なことがあったり、不安なことがあったりしても「大丈夫だ、死にゃしない」と思って切り抜けてこられたところがある気がするので、そこが自分の長所だろうと思います。
――ちなみに梅原さんの生き方について、ご両親は?
そんなに勉強しろとは言われなかったんです。当然、好きなことに夢中になるのはいいんだけど、人間最後は自力で生きていかなきゃいけないから、これでやっていくという仕事、生きていく手段っていうのは見つけなきゃダメだぞと、10代の頃からずっと言われてはいましたけど。
でもやっぱり、親も肩身が狭かったと思うんですよね。近所の人に「大吾くん今、何やっているの?」と聞かれたりしたら、答えづらかったはずです。
それが今では親戚も近所の人も職場の人も周知のことで、あんなに心配でダメかと思っていた大吾くんがこんなに変わるのかと言っている。それは世間の評価で、本人は何も変わってないんですがね。ただ、僕自身よりも絶対に喜んでいるし、夢みたいだと思っているのは、きっと両親じゃないかと思います。
――今後の夢や目標は?
実はそれが答えに困るところ。プロになると決めたときに、ぼんやりと「こういう風になったらいいんじゃないか」というイメージがあったんです。ギネスもそうですし、本を出すとか、TVのドキュメンタリーとか、「そんなこと起こるわけないだろう」と思いながらも「なったらいいなあ」と思い描いていた漠然とした夢だったんですけど、それらが全部叶った。初めての著書『世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」 勝ち続ける意志力』(小学館)は、ゲームファンのみならず多くのビジネスパーソンからも高い支持を得て、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で特集されたことも大反響となりました。
だから今は、新しい何かを探している最中です。ただ、いちばん楽しいというか、ワクワクできるのは、自分で企画する「Beast Cup」という格闘ゲームの配信イベントですね。このイベントをより大きくしていくことが、もしかしたら自分の夢かもしれないです。
梅原大吾著 勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」 (小学館)
――では最後に、梅原さんにとっての「やる気」の源とは?
僕は負けると、やる気が出ます。昔からそうですね。子供の頃は勝っていると楽しいという感覚がありましたけど、ある程度、年を経てからは、負けるとやる気が出ます。負けて終わりではなく、負けは次につながるんです。負けはチャンスなんですよ。 格闘ゲームでいい成績を残しているのは、そういう連中ばっかりです。負けて火がつくわかりやすいタイプが9割ぐらいだと思いますね(笑)。
――本日はありがとうございました。今後のご活躍も楽しみにしています!
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この記事を編集した人
タニタ・シュンタロウ
求人メディアの編集者を経て、フリーランスとして活動中。著書に『スローワーク、はじめました。』(主婦と生活社)など。