新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2023.01.23
1962年東京都江東区深川生まれ。千葉県立小金高校、武蔵大学出身。松戸市で靴屋を経営するかたわら、4年に一度のワールドカップやオリンピックを現地で応援し、ちょんまげと甲冑がトレードマークになっている日本代表の有名サポーター。被災地支援や貧困支援、障害者支援を行う「ちょんまげ支援隊」を結成し、国内外での支援活動からの学びを500回以上講演して歩く。40歳過ぎから始めたボランティアをライフワークにしている。2022年のカタールワールドカップでは400万円の寄付金をもとに五つの被災地から計8人の高校生、大学生を招待する「トモにカタールへ!」を実施、自身も「FIFA公認ファンリーダー」として大会に招待され、活動をさまざまなメディアで発信した。愛称は「ツンさん」。
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――サッカーワールドカップやオリンピックで、ちょんまげと甲冑で応援する姿が国際映像でよく捉えられていますよね。
はい。ありがとうございます!(笑)
――ちなみに、普段はどのようなお仕事をしているんですか?
千葉の松戸市で実家の靴屋を経営しながら、サポーター活動と、被災地支援や貧困支援の活動をしています。
――2022年末のカタールワールドカップには、「FIFA(国際サッカー連盟)公認ファンリーダー」として招待されたそうですが、どんな活動をされていたんですか?
大会を盛り上げるためにカタールが国を上げて熱心に準備をしていて、各国のインフルエンサーや名物サポーターを募集していたんです。それで、過去のサポーター活動や被災地支援活動の映像を送ったらすぐに連絡が来て、日本のファンリーダーとして東アジアから唯一招待していただきました。
まずワールドカップ一年前のプレ大会に39カ国から45人のファンリーダーが集められて、大会の準備状況をSNSなどでありのままに発信しました。
また、2014年のブラジルワールドカップ以降、「ちょんまげ支援隊」の活動として、被災地の子供たちを現地に招待しています。今回は東日本大震災だけでなく豪雨災害で被害を受けた岡山県の真備町、愛媛県宇和島市、熊本県球磨村など、五つの被災地から8人の高校生と大学生をカタールに招待しました。
――スタジアムでの清掃活動やゴミ拾いの様子は、日本のニュースや新聞でも取り上げられていました。
ありがとうございます。開幕戦の後のスタジアムがすごく散らかっていたので、サポーター仲間にSNSやメッセンジャーで呼びかけて、30人ぐらいでゴミ拾いをしました。とは言っても、Jリーグのサポーターは普段からスタジアムを大切にしているので、清掃活動も特別なことではなく、それを発信しようとは思っていなかったんですが…中東のインフルエンサーが僕たちのゴミ拾いの様子を撮って配信した動画が、1200万ビューもいったらしいんです。
それで、日本戦の後には500人ぐらいのボランティアの方たちから呼ばれて、囲まれて。怒られるんじゃないかとビクビクしていたんですが(笑)。「ありがとう」と感謝を伝えていただいて、すごく嬉しかったですね。その後、FIFA(国際サッカー連盟)からも表彰していただきました。一つの動画でこんなに大きな組織も動かせるんだな、と驚きました。
――中東の方やボランティアの方たちも、ちょんまげを見て日本人だと分かったんですね。その格好で応援するようになった理由を教えていただけますか?
日本代表の応援を始めた当初は、他のサポーターと同じように普通のユニフォームで応援していたのですが、世界大会で、他国のサポーターの華やかな応援スタイルを見て衝撃を受けたんです。たとえばノルウェーのサポーターなら、バイキングの大きなツノがついたフードを被っていたり、オーストラリアならカンガルーの着ぐるみを着たりして応援していて。国際大会は自国のアイデンティティの戦いなんです。
それで、僕も考えました。選択肢は三つあって、柔道着と忍者とちょんまげです。その中で、一番面白がってもらえそうなちょんまげを被るようになって。最初にその格好をしたのが北京五輪で、まだ甲冑は完成していませんでした。
――ちょんまげだけでも、相当目立ちますよね(笑)。現地の方たちの反応はどうでしたか?
当時は日中関係があまり良くなかったのですが、ちょんまげが大人気になって、「一緒に写真を撮りたい」という人たちの行列ができました(笑)。
――狙い通りですね!
ええ。でも日本とオランダの試合で、オランダサポーターのおじいちゃんが全身オレンジのタイツとオレンジ色の木靴、オレンジのアフロヘアーを被って、頭にチューリップを刺していたんです。そうしたら、お客さんがみんなそっちに並んでしまって(笑)。「オランダに試合にも負けたけど、応援スタイルでも負けた」と悔しくて…。そこから2年かけて甲冑を作って、今のスタイルにたどり着きました。
――幼少期はどんな子供だったんですか?
今のキャラクターからは想像できないと思いますが、すごく引っ込み思案な子供で、中学3年生ぐらいまではかなり大人しかったですね。
――意外です(笑)。
ですよね(笑)。中学生の時、母が用意してくれるはずの夏服を用意し忘れたことがあって、それだけで「学校に行きたくない」と。目立つのが嫌で、試験前になると精神的に追い詰められて胃が痛くなって試験を休んだり、すごくナイーブな子でした。
小・中学生の頃って、足が速いとか運動会で活躍する子がクラスのヒーローになるじゃないですか。僕は足が遅くて、運動会でもリレーなどには出られなくて。バレンタインデーにチョコをいっぱいもらうような素敵な男子が1部リーグだとすると、3部リーグぐらいだったんじゃないかな(笑)。
勉強だけはできたのですが、自信がないから人と比べられるのが嫌で、他の人がやらないことをやることがすごく嫌でした。
――自分に自信が持てるようになったのはいつ頃だったんですか?
高校時代です。中学時代からおしゃべりで、うちわの5人ぐらいの中では結構ウケていたんですよ。それが高校時代になると、見た目がかっこいい、とか足が速いこと以外に「面白いやつもアリ」という空気が出てきたので、「もしかしたら、これで生きていけるかもしれない」と少しだけ自信が出てきました。僕の高校は文化祭、体育祭、合唱祭、修学旅行など、生徒の自主性を優先してくれたことも大きかったです。
――それは大きな変化ですね! その面白さを活かした仕事に就きたいとは思わなかったんですか?
そこまでの野心はなかったです。面白いことを言って人を笑わせるのは、マイナスをゼロにするための努力で、たとえば芸人さんになるためにはそれをプラスにしないといけないので、そこまでの才能はないと思ったんです。
でも、高校の学園祭などで力を発揮しました。人が思い付かないような出し物を提案したりして、突飛なアイデアで人を楽しませたいと思っていましたし、みんなに面白がってもらえた時は嬉しかったですね。
それは大学でも変わらなくて、企画して実行することに長けていたので、「そういうスキルを生かせる方面に進んだ方がいい」と周囲に勧められて、卒業後は広告代理店に入りました。自分でいろいろなことを企画するようになった原点はそこにあります。
――人とは違う自分の強みを見つけて、そこに磨きをかけたことが転機になったんですね。
そうですね。ただ、学生時代にもう一つ大きな転機があって、それが浪人時代です。千葉から初めて東京に出てきて予備校に通ったんですが、浪人中は不安の真っ只中にいました。学力がどれぐらい伸びるかわからないし、大学に行ける保証もなくて、周りはみんな現役で大学に行って……。人生で一番不安な時期でしたね。
でも、その予備校の講師がいつも授業の前に海外の話をしてくれて、まだインターネットやスマホがない時代だったので「海外って行けるんだ!」と感動して、個人で旅行をするバックパッカーに憧れました。
残念ながら大学は志望校に入れず、落胆の春でしたが、ネガティブな気持ちで入学した武蔵大学が僕を飛躍させてくれたと今は感謝しています。夏休みに2カ月間、必死でバイトをして20万円ぐらい貯めて、お年玉を足して、毎年春休みに2か月、海外に行ったんです。
――その旅で、どんな刺激を受けたんですか?
大学1年の終わりにヨーロッパを一周して、その後はインドとネパール、中国、南米と毎年行きました。友達の間ではヨーロッパに行った後、大都会のアメリカやカナダ、オーストラリアに行くのが主流だったのですが、僕は旅先で知り合った人から「人類の秘境があるよ」と大変な地域を勧められて(笑)。
今ならインターネットで観光名所を予習したり、同時翻訳アプリも使えますけど、当時は自分で考えて行動するしかなくて。でも、いろいろな壁を乗り越えたその一人旅が僕の原点になりました。
――今の世界中での活動を支えるルーツですね。広告代理店には、何年ぐらい勤めたのですか?
入社3年目ぐらいの時に実家の靴屋が潰れそうになったので、会社を辞めて店を継ぎました。当時は泣く泣く、せっかくの広告代理店を辞めて靴屋?なんで僕が?と正直落ち込みましたが、今となっては靴屋があるおかげでこのような活動ができていると思っています。サラリーマンだったらサッカーの国際大会で1カ月休むわけには行かないですからね。自営業の強みだと思います。
――角田さんは、昔からサッカーが好きだったんですか?
いえ、元々はプロ野球の阪神タイガースが大好きで、サッカーにはまったく興味がなかったんですよ(笑)。でも、1993年のワールドカップアジア最終予選で「ドーハの悲劇」を見た時に、「ワールドカップって、大の大人が人前で泣き崩れるほど行きたい場所なんだ」と思って、行ってみたくなったんです。
――それで夢中になっていったんですね。現地にいくようになったのはそれからですか?
最初は「ワールドカップは大金持ちでないと行けない」と思っていたんです。でも、アジア予選ならバックパッカーのノウハウを活かして一人5万円ぐらいでいけると思い、奥さんと一緒に応援しに行くようになりました。それで徐々にコツが分かって、2008年の北京五輪以降は、すべてのワールドカップとオリンピックを現地に応援しに行っています。開催地は宿が高いので、少し離れたところに宿をとったり、知人のツテを頼ったりして倹約しながら安く旅をしています。今回のカタールも半分以上自炊をしていました。
――ワールドカップに被災地の子どもたちを連れていくようになったのは2014年大会からでしたね。きっかけは何だったんですか?
子供たちに「世界を知ってもらいたい」という思いと、その姿をメディアを通して伝えることで「被災地に関心を持ってもらいたい」という思いからです。
「かわいい子には旅をさせよ」というじゃないですか。もちろん、安全な国への教育旅行もいいですが、世界中の人と一緒に応援したり、応援合戦ができるのは、ワールドカップやオリンピックなどの国際大会ならではです。子どもたちが見たこともない人種、目や肌の色、言語や習慣が違う人たちと短期間で出会えるので、多様性を座学ではなく、リアルで学んでほしい。
だから、スタジアムでは子どもたちにも甲冑を着てもらうんです。みんな年頃なので最初は嫌がるんですけど、「騙されたと思って着てみて、すごいことが起きるから!」と言って。かきすると、写真を撮りたい人々が行列を作るんです。子どもたちは英語が堪能じゃないから自分たちから声をかけるのは難しいけど、甲冑を着るといろいろな人が集まってきて国際交流ができる。そこでそれぞれの被災地で手作りした感謝のハチマキを配ったり、巨大国旗にみんなで寄せ書きをしてもらったりしています。
――いろいろなゲームやイベントがあって楽しそうですね。
旅行代理店が思いつかないようなイベントや仕掛けを考えるのが好きで、どうやったら海外の方たちに日本を応援してもらえるかを考え抜きました。
ワールドカップの会場には、どっちを応援するかを決めずに来ている人も多いので、写真を撮るときやハチマキをプレゼントするときに「Please support Japan!(日本を応援してください)」とお願いします。子供たちには、「日本から来るサポーターは数千人だけど、スタジアムは数万人が入る。2万人ぐらいに応援してもらえるように頑張ろう!」と伝えると、みんな一生懸命声をかけて、それが交流の切り口になるんですよ。
――すごく貴重な経験ですね。支援活動は、他にどのような取り組みをされているんですか?
3つの柱があって、被災地支援と、エチオピア・ネパールやホームレスの方の貧困支援、障害者支援の3つを行っています。
いつかは誰しも歳をとって体が悪くなるし、突然会社を解雇されて貧しくなったり、地震や豪雨などの災害に遭うかもしれません。そういうことを発信することで「他人事ではない」ということを伝えながら、自分のできる範囲で支援することがモットーです。
そうした被災地の現状を多くの人に知ってもらうために始めた報告会が今は防災の話、誰でもできるボランティアや国際支援の話など多岐にわたり、「MARCH」という福島の映画などを製作して、11年間で500回ちかく講演を継続しています。伝えることも支援、知ることも支援だと信じています。
――被災地の記憶が色褪せないように、伝え続けているんですね。支援活動を始めたきっかけは2011年の東日本大震災だそうですが、ボランティアには元々、興味があったんですか?
そんなことはないんです。1995年の阪神淡路大震災の時に奥さんの姉の家が全壊して大変だったので「支援物資を持っていきます」と伝えたら、「食料とかがないから余計なことをしないで」と言われて。被災地支援は素人が手を出してはいけないものだと思い込んでしまいました。
それ以降、震災が起きても動かず、ボランティアをしていない自分を肯定してしまい、「ボランティアって嘘くさいよね」「自己満足だよね」と、アンチのポジションを取ってしまったんです。人間って一度アンチのポジションをとるとなかなか変えられないもので、実際、40歳過ぎまでボランティアをしない人生でした。
――それが変わったきっかけが、2011年だったんですね。
はい。東日本大震災の後、泥だらけになった子供たちが家も服もない、という状況をメディアを通して知り、さすがに「何かしなければ」と。それでうちの靴屋の靴を塩釜、名取、岩沼の避難所に200足ずつ届けました。「ボランティアは嫌いでも、死ぬまでに一回ぐらいは偽善をしてもいいかな」というつもりで行ったんです。
そうしたら、当時小2ぐらいだったうちの娘と同じぐらいの子供たちが避難所で膝を抱えてうなだれていて。元気づけたくて、ちょんまげを被ったんです。2万人が亡くなっている被災地でちょんまげを被ったら不謹慎だと非難されるかもしれないと思いましたが、何かしたい気持ちが勝りました。すると子供たちがばーっと寄ってきて、一緒に遊びました。その時に、子供たちに「また来るよ」と言ってしまって。それから毎週のように通うようになったんです。
特に宮城県の牡鹿半島は支援物資がなかなか届かず、陸の孤島のようになっていたので、被災した子供たちをベガルタ仙台のホームゲームに招待するバスツアーを企画しました。 子供たちの笑顔を見た瞬間は本当に嬉しかったですね。避難所と違い、スタジアムは叫んでも、踊っても、歌ってもいいんです。
――報告会などの移動も含めて、活動資金はどうやって捻出しているんですか?
団体を作っていないため助成金などは受けられないので、活動資金はSNSやインターネットなどで呼びかけて集まった寄付やチャリティイベントなどが頼りです。Jリーグのクラブは47都道府県以上にあるので、いろいろなサポーターが物資を集めて託してくれたり、サッカーのネットワークに助けられている部分は大きいです。
今回カタールに子供たちを連れていく資金は、クラウドファンディングと並行して5つの被災地で1週間ずつ回ってイベントをしたり、募金活動もしました。新型コロナの影響もあり、資金も支援の輪も広がらず断念しかけましたが、被災地のJクラブがスタジアムで募金活動をさせてくれたり、サッカー界だけでなく、いろいろな方が協力してくださって、最終的に400万円以上集めることができました。
――SNSで世界に向けて発信しながらも、自分の足で築いてきたネットワークや信頼があるからこそ、それだけ大きなサポートの輪ができたのですね。でも、ここまでくるのには大変なことも多かったんじゃないですか。
そうですね。ボランティアは教科書があるわけでないし、その時々の困りごとに対して臨機応変に自分で考えて判断して行動しなければいけない。被災地で冷たくされることもあるし、ちょんまげを付けているがゆえに物見遊山でボランティアをしに来ていると誤解されたこともあります。SNSのコメントで「目立ちたくてやっているんだろう」とか「ゴミ拾いしにスタジアムに行っているのか」と文句を言われることもあって、心が折れそうになりました。でも、逆もあります。僕の大学の学長が卒業式で、「君らの先輩に本校の建学の三理想、自ら考えて動く。世界に雄飛する。ツノダさんという方がいます…」と紹介して頂いた時は、涙が出ました。ボランティアに正解はなく、当時暗中模索だった僕に光が差しました。
国同士の紛争など、世界には大変な思いをしている人がたくさんいるし、日本でも職を失ったり、パートさんが時給や労働時間を削られたり、円安で物の値段が上がって家計を圧迫していて、他人を憂うゆとりはなくなってきていると思います。僕自身、コロナで靴屋も売上が落ちるし、県外にボランティアに来るな!と言われたり、大変でしたから。
たとえば、熊本の球磨村は被災から2年経った今でも建築制限があり、人々は仮設住宅に住んでいます。2018年の豪雨災害の被災地、真備と宇和島の子たちは、災害がやっと復旧した頃にコロナで修学旅行が中止。それらの事は報じられない。カタールワールドカップでの子供たちの行動を通して、5つの被災地がテレビ、新聞、ラジオに出ました。余裕のない今だからこそ、被災地に光が当たることは大切だと思います。
「特定の子どもを連れて行くのは不公平じゃないか?」という意見もあります。それは正論ですが、僕ら民間人が何千人という被災者の方たちに平等にボランティアを届けたいと思ったら、何もやらないことが唯一の平等になるじゃないですか。それでいいんですか?と言いたいですね。
「木を見て森を見ず」じゃダメですか? 一本一本の木を笑顔にしていくことしかできないですし、その活動に賛同してくれる人が増えていけば、木がいつか森になると信じています。
――そうやって、笑顔の輪を着実に広げてこられたんですね。今後もボランティア団体は作らず、個人で活動を続けられるのですか?
はい。ボランティアは毎回、「この指とまれ」方式で、「ワールドカップに子供連れていく活動に参加してくれる人」「◯◯を被災地に届けるから1000円募金お願いします」というように、その都度トピックを立ち上げて協力してくれる人を集めて、活動が終わるたびに解散しています。
理由はいくつかありますが、まず団体を維持する大変さを知っていますし、船頭が多ければ意思決定が滞ることもあるからです。また、いろんな人に話を聞くと、ボランティアに対してハードルの高さを感じる理由として、「サッカーと同じで、ボランティアという沼に入ったら継続的に行かないといけないと思うと、自分の好きなことができなくなる」という恐怖感があると聞きました。
「継続は力なり」という言葉があるように、一回きりのボランティアだと「中途半端だ」などと後ろ指を刺されるのではないかと思ってしまいがちですよね。でも、僕は「継続は力なり」ではなくて、「“断続”は力なり」でいいと思っています。「断」も「続」もあっていい。特にボランティアは嫌々やっていると被災者に伝播してしまうので、休む勇気も大事だよ、と伝えています。
――改めて、これだけ幅広く、長く活動を続けてこられたモチベーションの源を教えてください。
夢のない話かもしれませんが、靴屋さんを35年やっていると、そんなに感動ってなくなってくるんです。お客さんと熱い握手や抱擁をかわすことなんてないじゃないですか。でも、ボランティアをしているといろいろな人との出会いがあって、海外旅行と同じように感動や、普段の生活では得られない発見や気づきがあるんですよ。
みんなが休みの日にサッカーをしたりゴルフをして、仲間ができたり上達したりする喜びを感じるように、僕にとってボランティアは生活に彩りを与えてくれる趣味です。今は月に1回や2回で、身の丈に合った活動をしていますよ。無理せず楽しむ。それが、長く続けることができている最大の理由だと思います。
活動に賛同したり、協力したりしてくれた人たちに恩返しは出来ていません。でもそれを必要としている人に届けています。「恩送り」は出来ている自信があります。みんなの気持ちを背負って行かせていただいているという思いは忘れていません。
――今後、チャレンジしたいことはありますか?
カタールワールドカップに行った子供たちには、いろいろなメディアに出てもらいました。活動がメディアに出ることで、それを見て「うちの村から世界へなんて無理だよ~」と心の壁を作っている子どもたちに、「ワールドカップって行けるんだ」と思ってもらえれば最高です。伝えることが「知る」に繋がり、「行動」まで持っていけたら理想です。
被災地から学びを伝えて、ボランティアに対するハードルを下げることはライフワークになっているので、今後も支援活動と同じくらい、講演活動も続けていきたいですね。
――最後に、角田さんのように、好きなことを続けていくためのアドバイスをいただけますか?
最初に物事のハードルをできるだけ低く設定することが大事だと思います。たとえばボランティアなら、被災地支援でなくても、回覧板などで近所のゴミ拾いを募集していたりしたら、継続しなくていいので、とりあえず行ってみる。行動して失敗すれば悔しくてやり直すし、成功すればもう一度やりたくなる。行動がすべての源になりますから。
今の時代は先に予習をできるから、なかなか失敗しないじゃないですか。美味しいお店は調べれば出てくるし、効率良く稼げるバイトも調べればたくさん出てきます。昔は入ってみたラーメン屋さんのスープがぬるくてまずかったり、割に合わないバイトもいっぱいやって、そういうトライアンドエラーで逞しく育っていけたのですが、今は転ぶ前にある程度の予備知識があって、転ばないでも生きていけますよね。
その人生も素敵だと思いますが、大変な山を登れば、その後の気持ち良さもあるんです。それを回避して楽な方を登っても、達成感は得られます。ただ、小さい山であればその分達成感も小さくて、それしか知らなければ、比較や検討もできない。
見方を変えれば高い山はたくさんあるし、作ることができます。便利な時代だからこそ、それらをフル活用して以前は行けなかったような秘境にもチャレンジできると思います。まずは低いハードルから初めて、その活動が楽しければ自分でもうひと山作ってチャレンジしてほしいと願っています。「壁」「苦手」「弱点」「コンプレックス」は未来へのカギになると思うし、世界の扉をこじ開けるのは、少しぐらい大変でも「楽しい」って思えることなんじゃないかなと思います。
――ありがとうございました!
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この記事を編集した人
ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。