仕事・働き方

【独立時計師 菊野昌宏さん】直感を信じ、時に逆らって辿り着いた独立時計師の道。技と情熱が紡ぐ世界に一つの物語

2023.03.1

     

大手企業やメーカーに属さず、個人または小規模でクリエイター自らのコンセプトやデザインを基に精巧な時計を作り出す独立時計師。菊野昌宏さんは、ネジ一つから手作業で作り、世界に一つの物語を宿した作品を生み出してきました。アートのようなその作品は、世界中のコレクターが順番待ちをするほど人気です。現在、世界に34人しかいない独立時計師の国際団体「AHCI(Académie Horlogère des Créateurs Indépendants)」の正会員に日本人で初めて認定された菊野さんが、作品を生み出し続ける熱意と原動力に迫りました。

     


     

菊野昌宏さん関連画像
菊野昌宏(きくの・まさひろ)

1983年生まれ、北海道深川市出身。高校卒業後に陸上自衛隊に入隊。上官が付けていたスイス製の機械式時計に魅了され、2005年に除隊してヒコ・みづのジュエリーカレッジに入学。卒業後、江戸時代に田中久重が製作した「万年時計」に影響を受け、自動割駒式和時計を製作。これがスイスの著名な独立時計師の目に留まり、スイスで行われた世界最大の見本市で「不定時法腕時計」を出展。2011年に28歳の若さで独立時計師アカデミー(AHCI)の準会員となり、2013年には日本人初のAHCI正会員に。完全受注制で、新たなアイデアと作品を生み出しながら、母校で時計作りの指導を続けている。

公式サイト:Masahiro Kikuno
Instagram:masahiro_kikuno     YouTube:MasahiroKIKUNO

     

     

一つの作品が出来上がるまで


     

――菊野さんの時計はどれも美しく、独特の味がありますね。一本のネジから手作りされているとうかがいました。

     

ありがとうございます。構想から組み立てまで、1人の人間が一つの時計を作る、その物語の面白さを感じていただければ嬉しいです。

     

――どのぐらいの工程を経て、1本の時計が出来上がるのですか?

     

ネジを作る場合は金属の棒から削って、ネジを切って、切り落としてネジの溝をつけて磨いて、というふうに、一つの部品で何工程もあるんです。複雑な形状の部品だと時間がかかるんですが、たとえば時計の中の土台となるパーツは、50箇所ぐらいの穴を開けています。

     

菊野昌宏さん関連画像
菊野さんの作品「和時計改」「朔望」

     

座標を拾って一つひとつ、穴を開けていくんです。そこからまた仕上げをして、ようやく一つの部品が出来上がるんですよ。そう考えると、工程の数は多すぎて自分でも数えたことがないです(笑)。

     

――穴の位置が1mmズレてしまうだけでもやり直しですよね?

     

はい。1mmの違いはかなり大きいですね。失敗することもあって、その日は何もしたくなくなります(苦笑)。

     

――その地道な工程を丹念に積み上げて、物語が詰まった世界に一つの時計が出来上がるんですね。

     

はい。自分で作っておきながら、コツコツ作ってきたものを組み上げてちゃんと動いて回ったときは奇跡だな、と感動しますよ。

       

――菊野さんにとって、手作りの時計の魅力はどんなところだと思いますか?

     

一つひとつの工程を細分化して分担していけば、効率よく作ることができて安くいいものが買えるというメリットがあります。その一方で、一つひとつの仕事が細切れにされている分、薄くなってしまうところもあるのではないかなと。

          

人間の凄さは、一つの体でいろんなことができることだと思うんです。見て考えることも、手を動かして何かを作ることも、歩いて動き回ることもできる。その複合機としての能力をフル活用して時計を作るところが魅力なのではないでしょうか。

          

オリンピックでウサイン・ボルトが走っているのを見た時に、同じ2本の足を持っているのにこんなに速く走れるんだ!と感動したことがあるのですが、その驚きに近い魅力だと思います。

     

――創意工夫と鍛錬と情熱の賜物ですね。制作している中で、特に好きな作業はありますか?

     

どんな作業にも面白さと達成感があって、設計図が書けた時も、ネジが上手く切れた時も、製作した時計が動いたときも嬉しいです。失敗したとしても、また設計図まで遡って直して、上手くいけばそれも嬉しい。作業内容が多岐に渡るので、そういう細々とした喜びの積み重ねで時計ができていく感じですね。

     

Masahiro Kikuno’s Watchmaking)

     

――完全受注生産で作っているそうですが、注文を受けてから、製作して作品を渡すまではどのような流れなのですか?

     

制作工程を知っていただき、その価値をご理解いただいた上で購入していただきたいので、公式サイトで問い合わせていただき、直接お会いして注文をお受けしています。

     

ぼんやりしたイメージを持ってオーダーしに来られる方もいますが、具体的なデザインのアイデアは持っていない方が多いです。対話する中でお客様の情報をいただきながら、その方の特別な要素を入れて、「こういうデザインを取り入れましょうか」とか、「こういうデザインはどうですか?」と提案してデザインを作り上げていきます。

     

お客さんに完成品を渡す際には、製作過程を撮り溜めた写真集を一緒にお贈りしています。完成品を目にした時に驚きを感じて欲しいので、最初にデザインを打ち合わせして決めた後、制作過程の画像も納品するまでお客様にはあまりお見せしていません。

     

――緻密な作業の過程や誕生秘話が丹念に綴られているのですね!

     

完成品から知られる情報って限られているんですよね。どの部品をどう作っているのかは、時計を見ただけではわからないじゃないですか。そこが機械で作る時計との一番の違いですし、私が楽しみながら一つひとつ作り上げた物語を写真で見ていただき、手で作る面白さを文字と写真で追体験していただけたらなと思い、このサービスを始めました。

     

一つの時計を作るまでに2000枚ぐらいの写真を撮って、その中から選んで工程順にレイアウトしていくので、この作業も時間はかかりますね。

     

菊野昌宏さん関連画像
制作過程を写真集にして作品と一緒に贈っているという

     

――世界に一つの時計と写真集、これは宝物になりますね。

     

お渡しした時に喜んでもらえた時は安心すると同時に、すごく嬉しいです。

     

     

     

     

自衛隊から時計の世界へ


     

――菊野さんは小さい頃から手先が器用だったんですか?

     

はい。手を動かしてものを作ることや、細かい作業が小さい頃から好きでした。お絵描きとか折り紙から始まって、積み木、模型、プラモデルなどに夢中になりました。金属加工会社に勤めていた父の影響もあったと思います。

   

――当時、憧れていた職業はあったんですか?

     

そういうことは意識していなかったです。

   

たとえば、買ってきたプラモデルを作って色を塗って、できたら誰かに「すごいね!」と褒めてもらえる。その一連の流れが、自分にとってのモノづくりの魅力だったんですが、小学校に入って年を重ねるにつれて、少しずつ見方が変わってきて。

   

ものづくりは楽しいけれど、大人になると、たとえば車を作るとしても、それぞれの部品を作ったり組み立てたりする分担があって、すべてを1人で作れるわけではないんだなと気づいたんです。社会の授業で工場を見学して、「子供がレゴブロックで何かを作れる」という次元じゃないんだなと感じました。

   

その時に、子供のものづくりは「遊び」で、大人のものづくりは分業、という固定観念ができてしまったんです。ただ私自身、そういう仕事には魅力を感じなかったので、学生時代も「将来どうしようかな」と、漠然と考えていました。

     

菊野昌宏さん関連画像
小さい頃から手先が器用だったという菊野さん

     

――進路に悩んだ時期があったのですね。

     

はい。勉強もあまり得意ではなく、勉強したいこともなかったし、専門学校に2年間行ったとしても遊んで終わりかな、と思って。

     

それでどうしたらいいものかと思っていた時期に、友達から「自衛隊の説明会があるから行かない?」と誘われて、行ったんです。その説明会で、自衛隊の仕事に銃などの武器や車の整備の仕事があると聞いて「面白そうだな」と。

     

これまでとは真逆の環境に身を置いてみることでいい方向に変われたり、新しい発見があるかもしれないという思いもあり、高校卒業後に自衛隊に入隊しました。

     

――それまで考えてもみなかった環境に身を置いてみようと?

     

そうですね。私は文化系か体育会系かと言われれば前者で、体を動かすのもあまり好きではなかったですから(笑)。

     

ただ、それまでダラダラ生きてきた自分に規律が必要かな、とも思っていましたし、厳しい環境に身を置いて体を鍛えながら、お金を貯めて資格を取って、自分が本当にやりたいことが見つかればいいなと思いました。

     

――自衛隊では、どのような転機があったのですか?

     

入隊して二年目に、上官が身につけていたスイス製の機械式時計を見せてくれたんです。ゼンマイ式で動く時計で、当時の値段で30万円ぐらいすると聞いて驚きました。私は当時、自衛隊の購買で売っていた千円ぐらいのデジタル時計をしていたのですが、「そんなに高いなんて、何が違うんだろう?」と。それが、時計に興味を持ったきっかけでした。

     

その後、本屋さんに行った時に時計雑誌を手に取ってから、夢中になりました。ゼンマイで動く機械式時計の仕組みを知って、こんなに綺麗なパーツでできているんだ!と。

     

それからはいろいろな時計雑誌を買い漁って毎号読むようになって、知識を深めていきました。その中で、スイスの独立時計師の記事と<AHCI>という独立時計師の国際団体の存在を知ったんです。時計は工場で作っていると思っていたので「時計って個人でも作ることができるのか」と、すごくワクワクしたのを覚えています。

     

     

――自分にもできるかもしれない、と希望が湧いたんですか?

     

はい。でも、紙面に載っているのはベテランの時計師ばかりだったので、この年齢まで実力を磨きつづけないと作れるようにはならないんだろうな、と感じましたね。

     

ただ「自分も将来的に時計を作れたらいいな」と思ったので、時計を勉強するためにいろいろ調べていたら、日本に時計の修理をできる学校があると雑誌の広告に出ていたのを見つけて。4年目で除隊して、北海道から上京しました。

     

――その学校がヒコ・みづのジュエリーカレッジだったのですね。

     

そうです。ただ、入学する時に釘を刺されたんです。「うちはあくまで修理を勉強するところなので、時計の作り方作を教える授業はないですよ」と。

     

修理を教える学校はあっても、作り方を教える学校というのはほとんどないんですよ。

     

――それも一つの挫折だったんでしょうか。

     

いえ、それはそうだよな、と思いましたね。他の独立時計師も、修理でキャリアを積んでから独立した方が多いですから。

     

その時は私自身、右も左も分からない状態だったので、最初は時計の構造や小さな世界に慣れて修理のスキルを身につけて、「まずは入り口に立たないと」という思いでした。もちろん、その先で時計を作ることも簡単なことではないと覚悟はしていました。

     

     

     

30歳でAHCI正会員、そして独立時計師に


     

――長期的な視野で考えて時計作りを学ぼうとしていたのですね。学校ではどのようにキャリアのステップを掴んだのですか?

     

学校は3年間のコースだったのですが、時計の工房や工場を見学して、機材などの設備の必要性も分かりましたし、時計の世界を知れば知るほど、個人で作るハードルの高さを感じました。

     

「だから日本にはそういう人がいないんだろうな」とか、「年を重ねないと独立するのは難しいんだろうな」と、できない理由ばかり見つけて自分を納得させていましたね。独学で時計作りを学んではいましたが、「卒業後はまず、時計修理の会社に就職するしかなさそうだな」と考えていました。

     

ちょうどそのときに、あるドキュメンタリー番組を見たんです。田中久重という江戸時代の発明家が作った「万年時計」という置き時計を分解して調査するプロジェクトを追った番組だったのですが、「機械も工具もない江戸時代に、あんなに素晴らしい時計を作ることができたのか!」と衝撃を受けました。今は、当時に比べたらよほど恵まれた環境で、インターネットもあります。それで、「やろうと思えばできるかもしれない…じゃあ、やってみよう!」と考えが変わって。それが、自分で時計を作ろうと思った大きなスイッチでした。

     

菊野昌宏さん関連画像
田中久重の「万年時計」に影響を受け、時計作りをスタートした

     

――江戸時代の天才発明家に影響を受けたんですね。ただ独学で時計を作るために、生活面での苦労もあったのではないですか。

     

その点では幸運だったと思います。卒業後は研究生としてもう1年残り、学校の設備や、持っている自分の知識でできるところまでやってみよう、という形で時計作りをスタートさせることができました。

     

2年目からは研究生を教える立場で残らせてもらい、なんとか食べながら好きな時計を作っていけるようになりました。その環境がなければ独立時計師にはなれていなかったと思うので、そのポジションを作っていただいたことは本当にありがたかったですね。

     

――その時期に「AHCI」の準会員に最年少で認められ、30歳で日本人初の正会員になりました。本格的に時計作りを始めてわずか3年で正会員に認められたんですね! どのような経緯があったのですか?

     

スイスの独立時計師であるフィリップ・デュフォーさんとお知り合いで、時計関係の通訳をされている方が日本に遊びに来た際に、勤めていた学校を見学しに来られたんです。その時に私の作った時計を見て「こんなに面白い時計を作っているのか」と興味を持ってくださり、写真を撮って帰ってデュフォーさんに紹介してくださって。

     

そうしたら、デュフォーさんが「実物を見てみたい」と、スイスのアトリエに招待してくださいました。それで私の時計を見て、翌2011年にスイスで開かれる展示会に出展してみないか?と。それはつまり、AHCIの一員にならないか、ということだったんです。

     

――その展示会が、世界最大の時計や宝飾品の見本市と言われる「バーゼル・ワールド」ですね。すぐに決断したんですか。

     

その時は「今の自分のレベルでそんな場に立っていいのか?」という戸惑いもありました。学校で教えながら時計を作っていましたが、まだ販売できるレベルとは思っていなかったので、独立時計師になるためにはまだまだだと思っていたんです。

     

でも、ここで断ったらもうチャンスは巡ってこないだろうなと。研究生を教える制度がなくなったら仕事がなくなってしまうので、この先どうなるんだろう?という思いは常にありましたから。

     

それで、「未熟だし批判されるかもしれないけれど、今後も時計を作り続けられることの方が楽しいだろうな」と思い、「お願いします」と。展示会では「不定時法腕時計」という和時計を発表してデビューしました。

     

――最初に、買い手が現れたのはいつだったんですか?

     

最初の1年目は注文を受けなかったんですが、翌2012年に発表した「トゥールビヨン」という時計を欲しいという国内のお客様がいらして。その方のお陰で、独立時計師として最初の原資ができました。ただ、その後も新作を発表するたびに「買ってくださる方がいるのかな」というプレッシャーはありましたね。

     

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独立時計師として、独自の時計作りの流儀を固めていった

     

――時計作りの流儀は、その頃から固まっていったのですか?

     

今のスタイルが確立したのは2015年ぐらいです。

     

当初は「完璧な時計を作らなければいけない」というイメージがあって、より完璧に近づくためには、手よりも機械の方が完璧に近いんじゃないか、という思いがあったんです。だからこそ、時計が売れてある程度お金が貯まったところで、時計作りの中でコンピューター制御の機械を使うかどうかという悩みが生まれました。周囲からも、なぜ機械を使わないの?と言われることがあったんです。

     

――現代ならではの悩みですね。そこで機械を使わず手作業を貫いたのは、どんな思いからだったんですか。

     

完璧な時計を作らねばならないと囚われていたとき、生物の進化の歴史の本を読んで、完璧などないと気づいたんです。

     

現在人間は、生物の頂点のような顔をして地球に存在していますが、いまの環境に偶然適応しているだけです。地球の環境が変われば人間はあっという間に滅び他の生物が繁栄するかもしれません。つまり何が優位かということも環境によって変わるんです。現に38億年もの生物の歴史上どのような環境でも適応できる完璧な生物は生まれていませんよね。

     

そもそも機械式時計そのものが、時計としての精度はそんなに正確じゃないんですよ。それこそ、私が自衛隊の時に使っていた1000円のデジタル時計の方がよっぽど正確なんです。にもかかわらず機械式時計が存在して愛され続けているということは、必ずしも機能性に価値があるわけではないということです。早く移動するなら新幹線のほうが速いけど、人間が100mを走ってタイムを競う世界も面白いじゃないですか。

     

いろいろな価値観の中で、お客様と自分がお互いに喜び合えるような時計ができれば、それは良い時計なんだと、そう思った時に、吹っ切れましたね。わたしはやっぱり試行錯誤しながら自分の手を動かして時計作りをするのが好きだし、お客さんもそうやって作る時計を望んでくれるならこんな嬉しいことはないです。

     

本棚には蔵書がぎっしり詰まっている

     

――本から発想を得ることもあったのですね。これまでどのぐらいのペースで製作してこられたのですか?

     

製作するものにもよりますが、年間に1、2本です。2022年は一年をかけて「和時計改 瑞祥」という時計を製作しました。

     

製作するときは目標を決めて少しずつ作業を進めていきますが、特に時間は決めていません。納期が迫ってくると長時間働いて、時間があるときはのんびり製作しています。あまりスケジュール管理が得意ではないんですよ。

     

(和時計改 瑞祥)

     

――これだけ精巧な時計を作っているのに、スケジュールの管理が得意ではないというのは意外です(笑)。

     

そうですね(笑)。

     

去年の12月に納めた時計で、受けていた注文の製作が全て終わったので、年始にようやく休みが取れたところです。今年は、新作の開発に充てる一年にしたいと思っています。

     

     

     

直感に逆らって視野を広げてみる


     

――好きなことや、夢中になれることでキャリアを切り開いていくためのアドバイスはありますか?

     

私の場合は、好きなことを追求していたら周りの人が支えてくれて、いろいろな方を紹介してくれました。幸運だったと思いますが、それに対して素直に自分の直感に従ってきました。

     

若い時はもちろんある程度、自分の「好き」を追求することが大事だと思いますが、やりたいことが見つからない時や、壁にぶつかった時には、直感に逆らって「これまでと真逆のこと」をやってみるのもいいと思います。

     

私は自衛隊に入ったことで、改めて自分の得意なものと、そうでないものに気づけました。鍛えれば筋肉もつくし足も速くなるし、順応してそれなりにはできるようになったんです。ただ、やっぱりあまり好きじゃないな、と(笑)。そして、ものを作る作業が好きだな、と改めて知ることができました。

     

私のように、今まで目を向けていなかったものに目を向けることが壁を破るきっかけになり、成長につながることもあると思います。

     

――菊野さんが切り開いてきた世界に魅了されて、弟子入りしたい!という若者も多そうですね。

     

たまに、人生相談メールが来たりします(笑)。ただ、今は弟子を取るつもりはないんです。母校では今も週に1回研究生を教えていて、今年で11年目になります。時計を作りたい人は、ぜひ学びにきて欲しいですね。でもいつまで続けるかはわかりません(笑)。

     

――今後、時計作りにおいてチャレンジしたい世界観はありますか?

     

これまでとは違う仕組みの新しい和時計を考えています。

和時計は、上半分が昼、下半分が夜になっていて、駒の間隔で昼と夜の長さを示しています。

     

(和時計 改)

     

季節が移り変わるごとに、文字盤の間隔を変えることで昼と夜の長さが季節ごとに変化していく表示なのですが、次に作ろうと思っているのは、文字盤はそのままで、針のスピードが変わる時計です。楽しみにしていてください。

              

――本日はありがとうございました。次の新作も楽しみにしています!

     

     

 


 

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この記事を編集した人

ナカジマ ケイ

スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。

 
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