新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
生活・趣味
2022.10.3
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この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
連載第6回の「地縁のたまご」プロジェクトを見ていただければ、私たちのまちづくりの実践が、より小さなコミュニティから始められていることの意味が、おわかりいただけるのではないかと思います。
上から網をかぶせるようにして、指導していっても、「まち」は動かないのです。また、まちの課題を解決しましょう、と提案して、課題を意識させ、その課題を解決するために、予算をつけて、つまりおカネで住民を動員するという手法も、あまり褒められたものではありません。円(カネ)よりも縁(つながり)なのです。
たとえば、防災訓練があります。私の家のある町内でも、大規模な地震が来るといわれ、町内会で防災訓練を繰り返してきました。私も町内会の役員をやっていたことがあり、防災訓練には毎回参加していました。はじめの頃、マスコミなどで煽られたこともあって、住民の参加も多かったのですが、すぐにでも来るといわれていた地震がなかなか来ない。住民も飽きてくるし、防災訓練も負担だ、ということで年々参加者が減り、ついには役員しか参加しなくなってしまいました。こういうことはよくあるのではないでしょうか。
防災訓練は楽しく行うのがコツなのです。ある山の中の小さな村では、子ども向けの稲作教室を防災事業と位置づけています。行政の担当者に「なぜ?」と聞きましたら、こういう返事でした。
「ここの棚田は人工のダムなのです。この棚田が維持されることで、治水になっていますし、いざというときには、小さな田んぼ一枚で数軒の生活用水を1週間まかなうことができます。ですから、子ども稲作教室を開いて、子どもたちが楽しく稲作を学ぶことで、休耕田を少なくしているのです。」
なるほど確かに、防災事業です。
また、ある地区では、防災訓練を夏休みのキャンプと重ねて行っています。しかも、学校の校庭をキャンプ場にして、夏休みの土日に、日頃参加できないお父さんたちにも参加してもらって、テントを張り、キャンプファイアーや飯盒炊さん、それに段ポールを使った体育館でのパーテーションづくりなどをやっています。これらはすべて、被災時に避難所になる学校を使った避難所経営の訓練に結びついているのです。
そして何よりも、人々が顔見知りになることで、日頃から気にかけあう関係をつくることができますし、子どもたちも学年や通学団を超えて仲間ができ、自分の学校が避難所になるのですから、活躍する場が広がることになります。
義務感よりも楽しさ、なのです。乗り気がしない、というのが、まちづくりにとっては大敵なのです。ですから、やったら楽しかった、なんだか楽しそう、というのがまずは大事です。楽しいというのは、単に消費的な楽しさということではありません。
むしろ、本当に楽しいという感じは、友だちや仲間と一緒になってやって、やり遂げた、完成した、という達成感と、自分にもこんなことができるんだ!という驚きと、仲間から認められているという肯定感、そして仲間を自分も認めているという相互の承認、そういうものが重なりあって生まれる、極めて社会的なものです。こういう楽しさを一旦覚えてしまうと、それが自分を駆動するようになって、また次もやってみたくなってきます。
成功しているまちづくりの事例は、みな、このような人々の楽しさが生み出す駆動力をうまく利用したものだといってもよいと思います。そういう楽しさに裏打ちされた駆動力が働くようになると、それが人々に当事者性をもたらすようになり、人々は自分から、ここはこうしたらどうだろう、ああしたらどうだろうと、工夫するようになり、それがまた自分への驚きとともに、新しい駆動力を生み出すようになるのです。
まちづくりだけではありません。日常生活での困りごと対応なども、課題解決から着手すると、皆さん初めのうちは義務感や必要に迫られて始めるのですが、途中で負担感が出てきてしまって疲れてしまい、物事が動かなくなることがよくあります。
私たちの実践で、こんなことがありました。高齢化率の高いコミュニティで、住民が互いに見守りあって、支えあう関係をつくる相談がありました。それまでも、幾度も支えあい会議のようなものをつくって、相互の見守りを組織化しようとしたのですが、うまく行かなかったというのです。
始めようとするときには、よいことだし、このコミュニティにとっては必要なことだから、と誰もが賛同するのですが、やり始めてしばらく経つと、負担感が出てきて、一人抜け、二人抜けして、最後にはやれる人がいなくなってしまうのです。
こういう話はよく聞きます。私たちがやったのはそうではなくて、楽しいことから入るというやり方です。
まず、地元の人たちと世間話をするようにして、対話を重ねて、どんなことに関心があるのかを聴き取ります。みなさん、高齢の方々へのケアで疲れている雰囲気が伝わってきます。そして、誰かがちょっと気晴らしにコーラスでもやってみたいと言い出します。すると、数名の人たちが、私も、私も、と賛同してくれます。
こういうことが重なって、私の研究室主催で、コーラスやヨガ、ハイキングや町の歴史などの講座を開くのです。すると、皆さん、気晴らしにやってきて、楽しくなってくるとコーラスやヨガなどのサークルが出来上がってきます。
楽しい活動ですから、皆さん忙しい日常生活の中でも、少しの時間を割いて参加してきます。そうこうしているうちに、誰かが、「うちのおばあちゃんね、最近、認知症がちょっとひどくて・・・・」と愚痴をこぼし始めます。すると、「うちもそうよ。うちなんかねえ・・・・」と会話が始まります。
こうしているうちに、「だったら、愚痴会やらない?」と誰かが言い始めて、近くの喫茶店で愚痴放談会が始まり、それが定例化して、気がつくとお互いに助けあったり、情報を交換しあったりする「支えあい会議」のようなグループができて、活動を続けていくようになったのです。
この実践では、その後、ケアラーズ・カフェ(ケアする人のカフェ)というグループができて、お互いに支えあういい関係が続いています。
無理せず、気晴らしになるような形で、というのも、一つのあり方です。
このような実践を生み出すためには、人が顔と顔を突きあわせて認めあえる関係をつくることができるような、小さな関係づくりから入ることが秘訣だといえそうです。
私たちの実践も、こういう小さな関係づくり、顔の見える関係づくりから着手して、あとは短くても3年間はかかわり続けるというスタンスで、まちづくりの実践を進めています。
〈ちいさな社会〉をつくるということなのです。しかし、こういう話をすると、すぐに、ネットワークの形成ですね、という反応が返ってきます。またはそれを核にして同心円状に拡大していくのですね、といわれることもあります。
しかし、私の感覚では、網の目を広げたり、面的な展開をしたりするのではなくて、ドット(点)を増やしていく感じなのです。それが地下茎で結ばれているのかもしれませんし、つながった結果、一つのレイヤー(層)をつくりだすことにつながるのかもしれません。
でも、ネットワークを形成するというと、異なるものを力業で結びつける、ある種の無理が働くようにも思いますし、同心円的な展開となると、異質なものを排除することにもなりかねません。
むしろ、ドットがどんどん増えていって、それが重なったり、相互に干渉したりすることで、新しい価値が生まれ、またそこにドットが一つ増えていく、こういう感じなのです。
ですから、グループや組織を継続させる議論で、後継者がなかなか育たないとか、新人が入ってくれない、という話をよく聞くのですが、私は無理して新人を獲得したり、後継者を育成したりすることもないのではないかと思います。
やりたいことがあれば、新しい人たちで新しいグループをつくって、活動し、先にできていたグループと交流してもよいでしょうし、他のところで活動してもよいでしょう。グループが増えていくこと、つまりドットが増えていくことで、その活動が継続的にこの社会の中で続けられていくというあり方を実現した方がよいのではないでしょうか。
面展開も同様です。下手に面積が増えてくると、そこには普遍化、一般化の罠が待ち受けています。多様性や異質性を重んじるといっているのに、気づいてみたら、組織の運営のためにある種の服従を求めてしまっていた、というケースは少なくありません。
一つひとつのグループは、かかわっている人から見たら大事なグループですし、継続できることは大切ですが、それが排除の論理につながってしまっては、社会にとってはよいことではありません。少しでもたくさんのグループが様々にかかわりあいながら、活動を楽しむことで、社会の中に多様なつながりができてきて、人々が孤立しなくなることが大切なのだと思います。
要は、小さなドットをどんどん増やしていくことではないかと思います。
この意味では、コミュニティというよりも、もっと緩やかに、人々が関心を持ちあって、どこかでつながっているような、〈ちいさな社会〉をたくさんつくるというイメージなのかと思います。
ネットワークをつくるというと、これも強い結びつきというイメージがともないますが、〈ちいさな社会〉がたくさんできてきて、それがそれぞれの周縁部でぼやっとつながっている、関心を持ちあっている、こういう感じが大事です。そういう関係が広がることで、この社会は多様な価値が互いに認めあう、豊穣な〈社会〉になっていくのではないかと思います。
こういう〈社会〉での生活は、つねに自分の頭を働かせて、創意工夫して、他者を想像し続けなければなりません。戸惑うこともあるでしょうし、しまったと思うこともあるでしょう。
でも、それは、そのたびに、新しい自分に出会っては驚くという経験を重ねることでもあり、とても楽しいことなのではないかと思います。そういう楽しい生活を送ることで、自分が〈社会〉にとってなくてはならない存在なのだと実感できること。こういうことが、人を常に次にあれしよう、もっとこれしよう、と駆動していくのです。
こういう駆動力は、誰もが持っているものです。しかしそれは、人との間ででしか発動しません。それは顔が見える関係を基本につくられた〈ちいさな社会〉の中で、自分を認められ、自分も相手を認めることで生まれる、事後的な肯定感と自分への驚きがつくりだす、自分をこの社会で生かそうとする「生きる力」なのです。これこそが、「人の欲望を欲望する」私たちの本性でもあります。
これからのこの社会は、こういう自分への駆動力を発動させる人たちがつくりだす、自らが経営する〈社会〉へと組み換えられていくのではないでしょうか。そうすることで、人々は尊厳を認めあい、常に自分をつくりつづけるとともに、ともに生きているという実感を豊かに生み出しながら、この社会を価値豊穣な、生きるに楽しい〈社会〉へとつくりだしていくことになるのだと思います。
〈ちいさな社会〉がそれぞれに動きながら、それぞれにどこかで重なり、触れあい、関心を持ちあうことで、この社会は人々の思いが重なり、生活をささえあう、生きることが楽しい、魅力にあふれた社会になるのではないでしょうか。これこそが依存ではなく、自立するということですし、私たちの先達がつくってきたこの社会を活かしていくことにつながるのだと思います。
誰もが社会のフルメンバーとして、自分を新たにし続けることができ、自分に驚き、人とともに地に足をつけて生きているという実感、つまり当事者性を感じ取り、楽しくて仕方がない存在へと自分をつくりだすことができる〈社会〉、こういう〈ちいさな社会〉が、すでにこの社会のここかしこで実現しはじめているのだといってよいでしょう。これが誰もが主役になって、皆とともにつくり、担う、新しい社会のイメージでもあります。
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