【張り子作家・アート大福さん】絵本のように可愛く不思議な世界。まったくの未経験から独学で作家活動をスタート。「私にもできる!」と思ってほしい
2024.02.20
生活・趣味
2022.09.27
この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
この連載第1回で書いたように、コロナ禍、気候変動、そして戦争という世界的な大問題に翻弄され、通勤や日々の生活で疲れ切っているのに、その上にあれやこれやの細々とした問題がこれでもかと、次から次へと湧き上がってくるようで、なんで自分ばかり、と愚痴をいいたくなる心境になっている人も多いのではないでしょうか。
自分は何も悪いことをしていないのに、自分ばかりが損をしている、と思いたくなるときもあるでしょう。「親ガチャ」ハズレた、「上司ガチャ」ハズレた、「会社ガチャ」ハズレた、と自分の不遇を誰かの責任にしたくなる気持ちに囚われてしまうこともきっとあります。
そう思ってしまうのは無理からぬことです。そして、それは本当にあなたの責任ではないのです。そういい切ってしまってよいと思います。あなたがそう思うことの背後には、この社会が失ってしまったものが横たわっています。
その一つが、人々がお互いの信頼関係の中で、地域社会をともにつくっているという感覚ですし、住民自治という営みです。その営みを失ってしまった社会では、消費者は神様でありながら、行政やサービス提供者に依存しなければ何もできない、孤立して無力な存在とならざるを得なくなります。
しかも、社会からはそれが自己責任だというメッセージが発せられていて、だからこそあなたは頑張らなければ、と、自分でなんとかしようとして、一層孤立してしまう。その結果、自分を超えたより大きな強いものにすがりたくなり、考えることをしなくなって、仕方がないと諦めてしまう。こういうことになってはいないでしょうか。でも、そのことが結局、人々の生活をますます困窮させ、社会をますます分断してしまうのです。
しかし、私たちの生活とは本来、そんなに脆弱なものではなかったはずです。わたしたちが、互いにこの社会にともに生きる存在としての自分を見失い、生活をともにつくり、社会をともにつくっているという感覚を失うことで、何か大きな強いものにすがっていないと不安に苛まれ、自分だけを大事にして欲しいと求めることとなってしまっているのではないでしょうか。それがまた人々の孤立を深刻化してしまいます。孤立と依存こそが、わたしたちがこの社会を活かせない大きな原因のように見えます。
人々が孤立して、何か大きなものに依存することで、さらに孤立する社会では、改めて、人々が相互に認めあい、受け入れあう関係をつくることで、他者と結びつき、ともにこの社会をつくり、治めているという感覚と意識をつくりだすことが求められます。そうすることが、人々の生活を安定させ、人々がこの社会で安心して暮らせることにつながると思われるからです。
こんな寓話があります。
「地獄にはご馳走があり、長い箸が用意されている。それは長すぎて、自分の口に入れられない。だから亡者たちは、目の前に食べ物があるのに、餓えて争う。これが地獄です。天国は地獄の隣にある。天国にもご馳走があり、地獄と同じように長い箸が用意されている。そう、実は天国は地獄と変わらない」。
「天国では、長い箸で他人に食べさせてあげている。そして自分も他人に食べさせてもらう。地獄の亡者は自分のことしか考えない。だからご馳走を前にして餓えて争う。」(海堂尊『極北クレイマー』下、朝日文庫、228頁)
この話、よく耳にするのではないかと思います。仏教の法話などにも登場するようです。出典は、華厳経という説もあるといわれますが、はっきりしないようです。キリスト教にも同じような話があると聞きました。
ここには私たちがこの社会で生きていく上で、重要なことが述べられているのではないでしょうか。
人はひとりでは生きてはいけない。その通りです。しかし、ここには、ひとりでは生きていけないから助けあわなければ、という話では終わらない何かが、そっと挟み込まれていると感じます。人はひとりでは生きていけない、という言葉に対しては、たとえば、あるエッセイストの次のような言葉を対置してみたくなります。
「自分の家族と思うから余計な期待をしてしまう。それがストレスとなり甘えになる。家族の間に日常的に微風を吹かせておきたい。べったりで相手が見えなくなり、排他的になるなら、家族くらいしんどいものはない。/孤独に耐えられなければ、家族を理解することは出来ない。(中略)独りを知り、孤独感を味わうことではじめて相手の気持ちを推しはかることが出来る。家族に対しても、社会の人々に対しても同じことだ。/なぜなら家族は社会の縮図だからである。」(下重暁子『家族という病』、幻冬舎新書)
この二つの言葉は、正反対のことをいっているのでしょうか。私にはそうは思えないのです。同じことの裏表をいっている、つまり人が人として社会で生きていくあり方を、それぞれがそれぞれのいい方で指し示しているように思えるのです。
たとえば、それは次のような人の本性の表現と重なります。ラカンの「人は人の欲望を欲望する存在である」という表現です。
地獄で亡者は自分のことしか考えません。だから、飢えて苦しむのです。誰からも食べ物をもらえないからですが、ここではなぜもらえないのかが問われなければなりません。
別に自分のことだけを考えていても、誰かのものを奪ったり、誰かがくれたりするのであればそれでいいのではないでしょうか。ただ、その誰かも自分のことしか考えていませんから、誰もくれないのでしょう。また、誰かのものを奪うにしても、そこでは奪いあいの喧嘩が起こりますし、喧嘩に勝っても自分のお腹が膨れるだけです。しかも、あまりいい気持ちではなく。
では、天国ではどうでしょうか。天国では、他人に食べさせてあげる、つまりまず自分から相手に食べさせている、自分がその人からお返しがあるかどうかもわからないのに。これは、ある意味での純粋贈与です。見返りを期待しないで、相手に贈り物をする。そうすることで、いわば神の初発の一撃が起こり、次々と食べ物を贈りあう贈与が連鎖していく。こういうことではないでしょうか。
そしてそこにはさらに重要なことがあります。それは食べ物の贈与としては見返りを求めてはいない純粋贈与ですが、そこではラカンがいうように人の欲望を欲望する、つまりその人というよりも、自分が生まれ落ちてきたこの社会でみんなが欲しがっているものを自分も欲しくなる、ということだけではなくて、人が喜んでくれることを悦びとする、つまりその人が欲しがっているという「こと」を我がこととするという心の動きがかかわっているのです。
そして、人はそのこと、つまり他者にかかわってもらうことを求めており、他者から求められること、すなわち他者に欲望されることを欲望してしまわざるを得ない。なぜなら、私たちは皆がそのように欲望している社会に生まれ落ちてきて、自分がつくられていくからだ。こういうことです。
ここには、地獄で人のご飯を奪って満腹になること以上の悦びがもたらされています。お腹が膨れるかどうかわからないのに、自分には自分に対する満足が還ってくる、そうすることで実は自分にも他者からご飯がやってくる、お返しとしてではなく、誰かからのプレゼントとして。こういう満ち足りた循環がつくられていくのです。これこそが自立しているということなのではないでしょうか。
そこでは、自分が孤独であることに耐えること、つまり人とは異なる人間であることが前提となって、それでもこの社会で皆一緒に生きている、それだからこそ、人への想像力を働かせて、その人が欲しがるものをその人に贈ることで、その人が欲しがっているという「こと」、そして満足して喜んでいるという「こと」を自分の「こと」とする、そうすることで自分に満足を感じることができる。
このことの基本的で究極のあり方は、私は、他者が私にその他者にかかわるように欲望することを欲望してしまう、つまり常に誰かに呼びかけられることで、それに応答しないではいられないことを欲望してしまう、この社会の中に自分がいること、求められることを求めてしまうということです。
私たちは誰しもが、こういう他者を求め、他者に求められたいと願っている存在なのです。私たちは極めて社会的な存在でしかあり得ないのです。そこには、他者に対する想像力が働いています。ここには、人とはそういう存在だということが示されています。
ですから、下重さんの指摘する孤独に耐えることで初めて家族を理解することができるというのは、家族の一人ひとりがそれぞれの相手に対して想像力を働かせて、その人のために何かをすることで自分が豊かになるという幸福感を感じられる連鎖を引き起こす一つの純粋贈与でもあるのです。見返りを求めない、プレゼントなのです。そういう家族は、互いに尊敬しあい、本来の意味で自立した、頼りあい、助けあって生きる家族ではないでしょうか。
自立とは、孤立の別名ではありません。強い個人が、他者と争って、利益を得ようとすることは自立ではありません。その個人はどんどん孤立の度合いを深め、この社会で生きていることの悦びからますます遠ざかっていってしまいます。
そうではなくて、常に人に関心を持ち、その人の欲望を欲望するかのようにして想像力を働かせ、その人の呼びかけに応えることで、自分の悦びを豊かにしていくこと、そういうことが本来の意味で、ひとりでは生きていけないということですし、社会の中で生きているということ、つまり自立なのだといえます。
人の欲望を欲望して、それを想像して、実現することで、人との間で悦びを感じる、こういう自分をつくり続けていくこと、それは楽しいことであるに違いありません。そういう自立を成し遂げ続けている人には、笑いが絶えないのではないでしょうか。
そしてその笑いとは、人と人との間に巻き起こる社会的なものです。笑いのある社会は、人々がともに頼りあうことで自立している、健康な社会だといってよいでしょう。そこには寛容と余裕が生まれます。そこでは、多様であること、みな違っていることがごく自然であり、人がそれぞれ異なってあることで、自分がそこにあることを感受して、人の存在を感謝するような、そういう魅力が社会に生まれます。
反対に、想像力を失い、一つの観点に凝り固まってしまっている人は、他者に対して攻撃的になり、自立という孤立に固執しがちになります。自分だけを大事にしてくれといいつつ、社会を呪う言葉しか吐くことができなくなってしまいます。
このような自己中心に満ちた社会では、人々は互いに呪いの言葉を掛けあい、いがみあうことしかできなくなってしまいます。それはまた、人を信じることができなくなり、疑心暗鬼の中に生きることと同じです。
さらには、人々は足を引っ張りあって、不機嫌にいがみあう、いわゆる下方平準化が起こります。いまの社会に活力がないのは、人々が努力して、互いに認めあって、新しい価値をつくりだし続けるのではなく、相互の潰しあいがおこってしまっていて、おもしろくない社会が出現しているからではないでしょうか。おもしろくない社会のままでは、人は他者からの批判を怖れて、失敗を避け、その結果、イノベーションは起こらなくなってしまいます。
いま一度、孤立ではなく、認めあうこと、潰しあうのではなく、高めあうこと、対立をより高次の創造へと組み上げること、こういうことができる社会の基盤を考え、実践し、実現していくことが求められているのではないでしょうか。それは、小さな顔の見えるコミュニティをベースに、私たちが頼りあうことで自立することでもあります。
そこでは、他者と競争して勝ち抜く力ではなくて、他者と協働して新しい価値をつくりだす力が求められます。強い個人が他者を蹴落として、リーダーシップをとるのではなくて、弱い個人が助けあって、誰もがきちんと位置づくことのできる社会をつくり、新しい価値をつくり続けること、さらには哲学者の鷲田清一さんのおっしゃる、誰も取りこぼしはないかと、気を配りつつ、皆が役割を果たせるように支援する、しんがりを担う思想、フォロワーシップが重要となるのです。(鷲田清一『しんがりの思想—反リーダーシップ論—』、角川新書)
このしんがりを担うようにして、人とかかわりながら暮らしをつくる。こういうことができれば、どんなに幸せかと思います。そして、こういう生活を地域コミュニティづくりを通して実践している人たちがいます。私がかかわりを持っている、千葉県柏市の「多世代交流型コミュニティ実行委員会」による「地縁のたまご」プロジェクトの皆さんです。
(次回につづく)
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