新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
生活・趣味
2022.08.18
この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
長期の出張明けの休み、家でグズグズしているのも、何となく気が引ける感じがして、街に出てみました。
夏空が広がって、真夏の太陽が照りつけ、暑くても心なし気持ちが浮き立ってくることを感じます。地下鉄に乗ると、日頃の通勤時間とは異なる、色があふれていることに驚かされます。
マスクをしていても、わくわくするような気持ちが伝わってくる人たちが、そこにはいました。もしかしたら、通勤時間に出会っている人たちなのかもしれません。でも、今日、この時間に出会う人たちは、いつもとは異なる様々な色をまとい、思い思いの対話に花を咲かせ、読書をし、音楽を聴き、スマホ画面に見入っている、違っていることが当たり前な姿で、たたずんでいるのです。
本来、街って、カラフルで、人々はこのように多様で、違っていることが当たり前なのだな、と改めて思います。そして、このような当たり前のことに、ふと気づかされる場面が、このところいくつかあったことに思いあたります。
たとえば、コロナ禍のはじめの頃、学校が一斉休校になったことがありました。そのときに感じた、ちょっとした気持ちが高ぶるような違和感、それは地域にはこんなにも子どもがいたのか、ということでした。
日頃はおとなも通勤していて、昼間は地域にいませんし、子どもたちも学校にいっていて、地域には高齢者ばかりがいる、という印象でした。それが、一旦学校が休みとなり、子どもたちが地域にいるようになると、あちらこちらから子どもたちの歓声が聞こえるようになり、ああ、もともと地域社会って、こういうものだったのだな、子どもってこんなににぎやかで、子どもの声ってこんなにも人の耳をくすぐり、気持ちを沸き立たせるものなのだな、と過去当然の如くそうであったことを改めて思い出すかのようにして、感じたものでした。
そしてそのちょっとした違和感は、たとえば東日本大震災の後にキャンペーンが張られた「みんなちがって、みんないい」というスローガンに対して感じた居心地の悪さとつながってきます。
「みんなちがって、みんないい」、このことを訴えたい気持ちはよくわかります。違いを受け止めて、尊重しあおう。違いが差別につながることはあってはならない。こういう訴えがこの言葉には込められています。
でも、この言葉を聞いて、「誰がいいっていっているの?」と被災地の子どもから問い返されたときの軽いショックはいまでも、私の身体に居心地の悪さをともなって貼り付いたままです。あの言葉は、「違っている」ことを強要されるような感覚をもたらしながら、「いい」と評価されなければならないという一律の規範を生んでしまう。そういわれた気がしたのです。
このことはまた、「世界で一つだけの花」、自分の花を咲かせること、そのことが大切なのだ、ナンバーワンにならなくても、オンリーワンであることが大事なのだ、というメッセージとも重なってきます。
子どもたちの中には、オンリーワンであることはナンバーワンになることだと、この言葉の持つ意味を射貫いている子がいます。
誰もが自分らしさを大切にすればいい、といわれながらも、その自分らしさには社会的な評価が貼り付いていて、真ん中で誇らしげに咲く花とそれを取り囲んでそれを盛り立てる脇役の花とがあって、社会が評価するのはその真ん中の花なのだ、そして自分が脇役の花であれば、脇役としての役割を果たしたのかが評価の基準となる、というのです。
どこまでいっても、評価がつきまとうのです。
これはカラフルな街を脱色して、通勤時間の地下鉄の中のように、同じ色に染め上げてしまう、人を経済の道具として集団的に処理する、つまり序列化する社会の在り方と重なりあっています。
個性が大事だといわれても、その個性は有用性へと組み換えられて、序列化されてしまいます。だからこそ、通勤する人々は、誰とも違わないモノトーンの存在として、脱色された空間にその身をひっそりと隠そうとしてしまうのかもしれません。
でも、今日の街中の人々のように、人は本来カラフルでいたいはずです。違いを違いとしてどうやって認めあいつつ、一緒にいられるようにするのか。比べないで、でも違っていることを互いに楽しむにはどうしたらいいのか。そんなことを考えていたときに、ガツンと頭を殴られたのが、この言葉です。
「先生、なにブツブツいってるの。みんなちがってるのって、当たり前でしょ!」
そう、違っていい、のではなくて、違っているのは当たり前、そんな当たり前のことを問うてはいけないのです。問うから、どうしよう、と戸惑い、違っていることはいいことだ、といわなければならなくなってしまうのです。違っていることはいいことだといわなければならないから、いちいちそれがどういうことなのか、どうしたらみんな仲良くできるのか、などと考えてしまうのです。
でもそれはもうその時点で、違っているということを人と比べていることになってしまいます。それはどこまでいっても、誰かとの比較が、つまり序列化がついて回る考え方です。
そうではないのです。違っているのが当たり前なんだから、いちいち問うこともないし、人と比べることもない。問うたり比べたりしなければ、自分が人と比べて上か下かなんて気にならないし、自然体でいられる。
でも、自分と人が違っているのは、人がいないとわかりません。だから、自分が個性的で、自然体でいられるためには、誰か他の人がいてくれることが必要になります。自分が自分であるためには、人が大切になるのです。これこそが、「違っているのは当たり前」ということなのでしょう。
「違っていて当たり前」との言葉で私の頭を殴ったのは、世田谷区で空き家を地域にひらいて「まちのお茶の間」として活用する実践を進めている、「岡さんのいえTOMO」(以下、「岡さんのいえ」と記します)のオーナー・Kさんです。
「岡さんのいえ」の活動に参加していると、地域にはこんなにもカラフルで、こんなにも自然体で、こんなにもおもしろくて、こんなにも人のことを心配してくれる人たちが、こんなにもたくさんいるのだ、と驚かされます。まさに、違っていて当たり前、なのです。
「岡さんのいえ」は今年(2022年)で15周年を迎えます。「日常編集家」のアサダワタルさんがその著『住み開き—家から始めるコミュニティ』(筑摩書房)でも述べているように、空き家を地域社会に開いて、新しいコミュニティを始め、ひろげる活動だといってもよいでしょう。この本でも、「岡さんのいえ」が紹介されています。
「岡さんのいえ」は、その名前が示すように、もともと岡ちとせさんという方が住んでいました。戦前、女学校の英語教師を経て、戦後、外務省にお勤めで、退職後はこの家で地域の子どもたちに英語やピアノを教えていたそうです。
生涯を独身で過ごされたのですが、亡くなるときに遺言で、地域の人々によくしてもらったので、この家を自分の子どもだと思って、地域の人たちのために使って欲しいと、姪孫のKさんにこの家を託されたのです。
地域の人たちのために使う、とはいっても、Kさんも当初は戸惑いがあったようです。
ご本人もライターの仕事をしていらっしゃって、空き家に詳しいわけではなく、空き家を地域にひらくとはどういうことなのか、ということも誰かが知っているわけではありません。当初は、子育て中の若いお母さんたちが、子育てに煮詰まったときに、仲間でここを借りて、気晴らしの愚痴会を開いたり、子どもたちが友だちと転げ回ったりする場所として使っていたようです。
その後、Kさんからもっときちんと地域にひらきたいとのご相談があって、かかわり始めたのが、「岡さんのいえ」と私たちとのつきあいの始まりでした。
でも、私たちも空き家を地域にひらいて使ってもらうとは、どういうことなのか、漠然としたイメージはあっても、具体的に活動したことがありません。どうしたものか、と腕組みをしていたのですが、そんなことをしていても始まらない、と、まずはゼミ生を連れて「岡さんのいえ」に上がり込み、地域社会はどうなっているのかの勉強会を開きました。
そこでは、各地で空き家が増えていること、少子化と高齢化で地域の人間関係が薄くなってきていて、とくにお年寄りが孤立しがちであること、子どもたちも日常生活の場が家庭・学校・塾に限られてしまって、豊かな人間関係の中で育つ環境が失われていること、地域の公園もたとえば野良猫が糞をして衛生上よくないとのクレームなどで砂場が消えていくなど、子どもたちがからだを使って遊べる場所が減っていることなどが語られ、議論されました。
そして空き家を使うとは、誰か特定の人たちが経営して、住民の人々に場所を提供するということではなくて、むしろ一人ひとりの住民が自分で使うということが本来の在り方なのではないか、地域の空き家は地域の誰が上がり込んでもよい「お茶の間」のような場所としてあったらよいのではないか、という議論になっていったのです。
では、どうしたらいいのか。まずは「岡さんのいえ」がこういうところだと知ってもらおうということになり、学生たちが中心になって、様々なイベントを打ちました。留学生との餃子パーティや子どもたち向けの寺子屋、駄菓子屋と昔遊びのイベントなど、いろいろ取り混ぜて、思いつくままになんでもかんでもやってみたのです。
こうして地域の人々に先ずは名前を知ってもらえたか、と思った矢先、こういう噂が聞こえてくるようになります。学生たちが毎日集まっては、よからぬ活動をやっていて、地域の人たちを勧誘している。どこかの新興宗教の集まりではないのか、と。いえいえ、T大生がかかわっている空き家の活用を通したまちづくりの活動ですと、近隣に説明に行くと、そういえば、オウム真理教ってT大出身者が多かったですよね、とやぶへび。
参ったなあ、と思っている私たちを救ってくれたのが、子どもたちだったのです。学生たちがいろんなイベントをやっていると、「何やってるの?」「面白そう」といっては、立ち寄るようになり、その子どもたちが友だちを誘って遊びに来るようになり、それが学校の先生を呼び込み、保護者を呼び込むことになり、最後には地域にたくさんいる高齢者をも巻き込む形となって、いまの「岡さんのいえ」につながっていくのです。
いつも始まりは好奇心旺盛な子どもたちなのです。
はじめは、ちょっとした駄菓子屋だったり、ちゃぶ台を囲んでのお茶飲み会だったりしたのです。「岡さんのいえ」には、昭和初期の懐かしいミシンやオルガン、それに蓄音機などがあり、テーブルではなくて畳にちゃぶ台が基本です。そういう雰囲気も楽しんでもらいながら、地域の人たちがふと立ち寄って、子どもたちがお菓子を求めて集まっては上がり込んで、ドタバタ走り回る。
そういう空間が出来上がっていきました。その一つが、開いてますからどうぞご自由に、という「開いてるデー」の取り組みでした。
そうすると今度は、いろいろな趣味を持った人たちが、自分たちの活動の場所として使いたい、子どもたちに見せたい、一緒にやりたい、と趣味の集まりを持ち込むようになります。「岡さんのいえ」という空間が地域にあることが、重要なのです。
お茶やお花、書道など定番のおけいこごとはいうに及ばず、鉄道オタクのおじさんたちが子どもたちに見せたいと、毎週日曜日にクラブ活動のようにして、鉄道模型(Nゲージのパノラマ模型など)を持ち込んでは、子どもたちに触らせてくれるのです。ご本人たちも、半ズボンに帽子と、童心に返ったような、気合いの入れよう?なのです。
さらに、蓄音機を使ったレコード鑑賞をやりたい人たちや、楽器を演奏する人たちがミニコンサートを開いて、地域の人たちに披露したり、若いお父さんたちが「粉もんイベント」をひらいたりするようになります。そしてそこにまた、子どもたちが友だちを連れてきて、一緒にお好み焼きやたこ焼きをつくって食べたり、地域の人に配って回ったりして、それがさらに人々を呼び込むことへとつながっていきます。
そこにたとえばちいさな赤ちゃんを抱えた若いお母さんたちが参加することで、地域の先輩ママたちとつながり、おばあちゃんとつながって、緩やかに関心を持ちあう関係が幾重にも重なって、無理せずに気にかけあう安心感が生まれてきたりします。
一見、カオスな状態が、人々が互いに配慮しあう関係が生まれることで、ごちゃ混ぜになり、混ざりあうことで、安心できる空間が生まれるのです。「まちのお茶の間」というよりも、なんだか「雑踏」が閑静な住宅街の一角に突如出現したかのような、それでいて、その雑踏は混沌ではなく、人々が互いに気を遣い合うことで、ほっと心安まる自分の居場所となっていくのです。
(次回につづく)
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