新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
生活・趣味
2023.03.9
第14回記事「「農的な生活」が生む幸福論・4—田舎をめざそうプロジェクト(4)」はこちら
この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
前回までに述べてきたようなプロジェクト・メンバーの姿を見て「負け犬」じゃないか、と思うでしょうか。厳しい競争社会ではやっていけずに降りてしまった、敗者じゃないか、そんなヤツは役立たずだ、と思うでしょうか。でも、この社会の大多数の人たちは、勝者にはなれず、この彼らと紙一重のところで、ぎりぎり自分を保っているのではないでしょうか。
メンバーの彼らは、こういう考え方を一蹴して、こういうに違いありません。「勝者敗者といういい方に、どんな意味があるの?」
このようにいうのは、この社会が構造的に、人々を追いつめざるを得ないからです。大量生産・大量消費を旨とする産業社会では、人々は農村的な結合から切れて、自由で孤独な労働者として、都市で働くようになります。そこでは、誰もが同じように働いて、同じように賃金をもらえ、同じような生活を送ることができるという感覚が社会に広まります。そして、同じように働くために、学校を通して同じ言葉(標準語)を学び、同じ価値観を持ち、同じように振る舞う身体の所作を身につけていきます。
時間と空間が、誰にとっても同じものとなり、誰もが工場で働ける産業的身体を持つように仕立てられていきます。こうして、「みんな同じ」という感覚ができあがります。
しかもこの「みんな同じ」という感覚は、みんなが欲しいものは自分も欲しいもの、ということは、みんなの欲しいという感覚は自分の感覚でもあるという感覚を一般化していきます。これが市場を拡大していくのです。
ある地方都市で、高校生たちとワークショップをやっていたときの経験です。「このまちのこれからを考える」という、いかにも行政らしいテーマが与えられていました。参加者にアイデアをグルーピングしてストーリー化するKJ法を使ったワークショップを行うと、一部のグループからは駅前のシャッター通りとなった商店街を整理して、都会にあるような大規模スーパーを誘致してほしい、という要望が出てきました。そこには都会にあるブランドショップや可愛いキャラクター、さらに映画館までもが完備されている、きらびやかな空間が想定されていました。「東京のような」と参加者の高校生がいったことがそれを象徴しています。
ところで、「東京のような」場所とはどういう場所なのでしょうか。多くのいわゆる地方に住んでいる若者たちは、こういう憧れを抱いているといわれます。地元には何にもない。だから、近くの県庁所在地のほうがいい。県庁所在地の子たちは地元には何もないから、といって、その地方の中核都市、たとえば札幌や仙台、横浜や名古屋、大阪や神戸、京都、福岡に憧れ、さらにそこから東京を目指そうとする、と。
では、「東京のような」といわれる場所はどんな場所なのでしょうか。それは、マスコミやSNSなどで手に入れられる情報によってイメージできる東京、つまりきらびやかな消費空間としてのデパートや表参道などの空間、そういうものです。
「東京のような」という要望に別のグループの子が食いついたのです。「東京には何でもあるっていうけど、それって本当なの?」と。
東京には何でもあるけど、それはお金がないと買えない。じゃあ、お金があるとして、自分が欲しいものは選り取り見取り、って本当なの? 本当は、人がいいといってるものやマスコミがあおり立てているものを、自分が欲しいと思っていると思い込んでるだけじゃないの? 選り取り見取りなのに、本当は選ばされてるし、買わされてる。そういうことなんじゃないの? それって、全然選択肢がないじゃん。他人の人生を買わされてるってことだよね。そんな人生、楽しいの?
ハッとしました。このグループの子たちのいうことと「農的な生活」や「多能工」の生活の考え方とが重なっているだけではありません。大規模スーパーが欲しいといっていた子たちの考え方と、これまでの学校教育の在り方とが重なっているからです。
学校は、子どもたちを教育して「みんな同じ」感覚を持って、同じように働く労働者につくりあげるだけではなく、みんなと同じ欲望を持った消費者をつくりだすための制度としても機能してきました。学校という制度は、そういうものとしてつくられているのです。
経済発展のためには、市場の拡大が求められますから、学校には、誰彼を問わず、みんなを入学させて、どんどん消費者を市場に供給することが求められます。
こういう「みんな同じ」という感覚が一般化することで、それは信憑となり、それが社会をより平等なものにしようとする力となって作用します。誰もがみんなと同じように生活する権利を持ち、それを保障されるべきだという考えや社会的な差別や格差は是正されるべきだという考えは、こうした社会が生み出した優れた価値です。
しかし反面で、「みんな同じ」であれば、一つの尺度をあてがってやれば、お互いに較べることができて、序列化することができることにもなります。これが進学競争やテストによる序列化、さらには偏差値による序列化というものにつながっていきます。
ちょっと変ないい方ですが、人との違いは人と同じだから生まれることになるのです。ここでは、違いは「差」としてとらえられます。
そして、この社会では、分業が一般化することで、人の労働力としての力も細分化されて、簡単な仕事ができる力へと還元されていきます。そこから今度は、それら労働を管理する事務的な仕事の重要性が増し、いわゆるブルーカラーとホワイトカラーと呼ばれる階層の分化を導きます。しかしそれも、パソコンとネットワークの発達で、ホワイトカラーの専門性はどんどん解体されて、単純労働化されていきます。
ここで人は、誰とでも入れ替え可能な状態になっていきますし、一つの単純な仕事しかやらないし、それしかできない「単能工」となっていってしまいます。
これまでの社会では、人はどんどん「みんな同じ」状態になり、誰とでも入れ替え可能になって、「あなたでなければダメなんだ」といわれなくなっていました。しかし反面で、みんなと同じになればなるほど、自分はみんなとは違うのだという感覚を持つことができてもいました。
一面で、入れ替え可能で、自分でなくても、この社会は回っていくし、自分がいなくたって誰も困らない、私って誰?という感覚が人を支配するようになるのですが、もう一面で、自分が人と同じだとされればされるほど、実は人と同じだとされることが基準となって、でも自分って、本当は人とは違うよなあ、という感覚も強くなってくるのです。しかも、「みんな同じ」という安心感を得ることができます。自分はこの社会の一員なのだ、と。
自分が、「みんなと同じ」自分を参照系として、「みんなとは違う」自分がいることを自分なりに認めることができる、そういう社会がこれまでの社会だったといってよいでしょう。人は、社会の中の一員として、入れ替え可能で、社会的な存在価値が曖昧になりつつも、その社会をつくっている自分として、自分を確認することができたのだといえます。
しかしこの社会が、日本では1985年頃から怪しくなるのです。市場が飽和して、みんな同じであることが意味をなさなくなり、「個性」「人とは違うこと」が求められ始めたのです。
その後、社会は製造業中心の産業社会から、金融・サービス業中心の社会へと構造的に変化し、「みんな」が解体をはじめます。ここで問題が起こったのです。
多くの人たちが、自分は一体何なのか、わからなくなってしまったのです。それまであったはずの、自分が自分を固有のものとして認める基準がなくなってしまったのです。
「みんな同じ」で入れ替え可能な自分も、それなりに苦しかったはずなのに、それでもまだ「みんな」とは違う自分を「みんな」を通して感じることができたし、自分で自分を肯定することができました。
でも、この「みんな」が、それぞれ違う状態であることを求められることで、一挙に、崩れていってしまったのです。人とは違う自分をつくらなければ、個性ある自分をつくらなければ、という強迫観念に人がとらわれていくのです。
しかも、いまや金融業やサービス業は雇用をつくりだす産業ではないことは明らかで、皆、非正規雇用ですまされてしまいます。それこそ誰とでも入れ替え可能なのですし、それが強化されていきます。その上、サービス業では、「お客様」の機嫌を損ねては大変です。一挙手一投足を評価されることになります。ちょっとしたミスが、自分の全人格を否定されるような罵倒を導いてしまいかねません。それはもう、労働力の評価などというものではありません。
こういう社会構造の中で、人は、「みんな同じ」という基準を失い、すべてがばらばらで、個性的であれとあおられて、不安に駆られて、不機嫌な「他人」を参照系にして、自分をとらえなければならなくなります。それなのに、その「他人」は気まぐれで、しかもそれぞれがばらばらなのですから、基準にはなりません。こうして、人は自分を自分で肯定することができなくなってしまいます。
そこで起こったのが、気まぐれな「他人」から直接認められるように、「他人」の感情に自分を合わせることです。でも、それって、同調することでしかなくて、自分を個性的につくりだすことでも、自分を肯定することでもありません。これを、「感情労働」といったりします。
こういう関係の中で、人は、人よりも上に立つことで、何とか自分を保とうとする戦略を採り始めます。それは自分が努力して、より高いところへ行こうとすることよりは、人を罵倒し、批判し、引きずり下ろすことで、人よりも優位に立つという戦略として一般化します。そのほうが、楽だからです。
でもそれは、社会を不機嫌にし、人々の関係を毛羽立った、居心地の悪いものとしてしまいます。そこで得られる肯定感は、社会の中に人とともに生きていて、自分を社会の中に位置づける、社会的な存在としての自分という肯定感ではありません。それは、人を馬鹿にすることで得られる虚しいもの、または人を認めることをせず、とにかくここにいるボクを見ていて!というわがままな自己愛的なものでしかありません。
これでは、心が荒んでいくのではないでしょうか。なぜなら、私たちは、人から認められていると自分を認めることができるときに最大のパフォーマンスを発揮することができる社会的な存在なのですから。
でも、もう私たちの社会は以前のような「みんな同じ」を価値とする社会に戻ることはできません。では、どうしたらよいのでしょうか。ここに、この問いとプロジェクトに私が見出した可能性とがリンクするのです。
私がプロジェクトの成功を確信したのは、それまで自己肯定感なんて持ったことのなかったメンバーが、初めて、自分を認め、地元の人たちに感謝し、自分を地元に位置づけようとしていたからでした。
そういう存在のあり方は、自分を取り巻く社会に新しい価値を生み出していきます。それは、そのまま直接、経済的な儲けにつながるわけではありません。しかし、それは彼ら自身が無償の贈り物をもらうことで、誰かにお返ししなくてはいられなくなり、その贈与と答礼の関係が、人々のネットワークを広げ、交流を活発にして、そこに彼らが生み出した「農的な生活」の価値が投げ込まれることで、彼らが予期せぬ形で新しい価値を生み出して、それがまた地元に還ってくるという、市場本来のあり方を生み出していく、そういうつくられ方をしているのです。
これこそが、これからの時代に求められる社会のあり方なのではないでしょうか。そこでは、いろんな人たちが、人とは違う生き方、人とは違う価値を持ちながらも、ネットワークで結びついて、お互いに尊重しあって生きることができます。
しかも、そのいろんな人たちは、それぞれに異なる仕事を持ち、異なる生き方をして、この社会を多重なレイヤーとしてつくりあげていながらも、そのレイヤー相互の間を軽やかに行き来して、そこにまた新しいレイヤーつまり新しい価値をつくりだし、それをネットワークの中に還流して、ネットワークをより豊かにしていくのです。
こういう生活は幸せなのではないでしょうか。自分が常に人との間で、地に足をつけて生きているという強い実感をもたらしてくれるのですから。
プロジェクト助成期間が終わり、自立を求められた頃、地元の顔役がこういったことが忘れられません。
「農業は農業だけ、林業は林業だけ、サラリーマンはサラリーマンだけ。こう思い込んどったのは、わしらのほうだった。一つの生き方しかモデルがないと思い込んどった。でも、みんながやっとるのは、わしらのじいさん、ばあさんの頃の百姓の生活の現代版だ。ここで生活するには、これもやらないかん、あれもやらないかん。誰彼とも一緒になって、みんなでいろんな仕事をやらんといかん。そうやって生活していると、いろんな力が身についてきて、勘考するようになるのよ。そうなると、今度はこれやろう、その次はあれやろうって、どんどん生活がおもしろくなっていく。みんながやっとるのは、こういうことだったんだなあ。頭をがつんと殴られたのは、わしらのほうだ。」
これを「多能工」の生き方と呼んでいます。多能工の生活こそ、「農的な生活」の基本です。そして単能工だった自分を克服して、多能工的に生きることは、何も農山村という場所でできるだけではありません。都市部でもどこでも、自分自身を人との間において、自分の丁寧な生活をしようとすることで、自分なりの価値基準をおいた「農的な生活」ができるのではないでしょうか。そしてそのような生活こそが幸せな生活なのではないでしょうか。
(次回につづく)
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