生活・趣味

【寄稿】「農的な生活」が生む幸福論・2—田舎をめざそうプロジェクト(2)|〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる(12)

2023.01.19

〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる(12)
息苦しく不穏な時代の渦中にいながら、新しい⾃分の在り⽅を他者との「あいだ」に見出し、〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる人々がいます。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、その〈ちいさな社会〉での生き方を追い、新たな「⾃⼰」の在り⽅を考えてみましょう。
愛知県豊田市の山間地域で繰り広げられている若者たちの新しい生活づくり、それはまた「農的な生活」による幸せづくりといってもよいものです。この試みはどう始まって、どう進められてきたのか、まずはその背景をお話しします。

第11回記事「「農的な生活」が生む幸福論・1—田舎をめざそうプロジェクト(1)」はこちら

  


     

    

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

牧野先生の連載はこちら

 


 

 

 

平成の大合併


    

このプロジェクトの直接の発端は、当時の豊田市長から「合併した地区が急速に疲弊している、何とかならんか」と相談を受けたことにあります。

   

2008年のことでした。豊田市は2005年に平成の大合併の仕組みを使って、近隣6町村を合併し、人口は30万人から5万人増えて35万人になったのに対して、面積は約6倍に、愛知県の6分の1を占め、岐阜県と長野県に接する巨大な中核都市になりました。

    

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豊田市が合併を決意したのには、理由があります。三河地区の中核都市としての責任です。トヨタ自動車の本社を擁する豊田市に近隣の町村から働きに来ている人が多く、経済的にきちんと責任を負わなければならないと考えていたことがまずあります。

   

さらにこれら町村は、豊田市を流れる矢作川水系の水源地でもあって、豊田市は水源の整備のために独自の水道税を市民から徴収して、近隣町村に助成し、山林の維持を進めていましたが、より積極的に山林保護をしなければならないと考えていたことが挙げられます。

    

そしてさらに山林は、戦争中に燃料として木々を伐採した結果、山がはげ山となり、戦後復興の過程で、商品になる杉や檜を植林して、つくられていました。しかし、商品価値が低下する中で、山林が放棄され、また花粉症などの問題もあるために、針葉樹林を雑木林へと切り換える事業を進めており、豊田市がそれを主導する責任を感じていたこと、も理由の一つに挙げられます。

   

近隣6町村は、国から地方交付税をもらわなければ維持できない財政状況、豊田市は税収が豊かで、地方交付税不交付団体でした。ですから、当然、豊田市議会は合併には後ろ向きでした。それを、先の責任を説いて説得したのが、当時の市長でした。

              
  
  

合併で疲弊する自治体


   

しかし、合併後3年が経とうとするときに、合併町村を調査してみると、急激な過疎化が起こり、農山村が疲弊していることがわかったのです。

   

豊田市は合併にあたっては、他の合併自治体について理解を深め、合併町村側が疲弊しないように手を打ってきました。

    

コンサルを入れて、どうしたらよいのかの対策を立て、たとえば交通の便が悪いというので、豊田市街と農山村の間に一日に2往復しかなかった路線バスを廃止して、市営バスを1時間に何往復も走らせました。買い物をする場所がないというので、補助金を出してスーパーなどに出店してもらいました。また、医療機関がないというので、ヘリポートを整備してドクターヘリを飛ばすことにしました。

    

ところが、これらはほとんど意味がなかったといいます。バスは「空気を運んでいる」と議会から批判され、減便を余儀なくされそうになっています。スーパーも利用者が伸びず、撤退を余儀なくされ、ドクターヘリもほとんど利用がないようです(ドクターヘリは、医療的措置ですから、本当に必要がなければ、利用がないほうがよいのですが)。

   

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※写真はイメージです。

   

そして、気がついてみたら、合併地区で豊田市街にクルマで30分から1時間圏のところから、人がごそっといなくなっている、こんな現実を突きつけられたのです。過疎化が進行しないように様々な手を打ってきたのに、それがすべて裏目に出てしまっている。一体どういうことなのか。

   
   
   

「馬鹿にするな!」市長は激怒した


   

豊田市はその原因を探るために、さらにコンサルに調査を依頼します。そして出てきた答が「農林業では食べられず、働き口が地元にはないから」という、ありきたりなものだったのです。

   

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このコンサルからの回答に市長は激怒したといいます。「疲弊しないように事前調査をし、コンサルが疲弊の原因だというものを解決するための手を打ってきたのに、結果的に疲弊を止められなかった。その原因を探れというのに、できない理由ばかりを探してくる。農林業では食えない。働き口がない。そんなこと、誰でもいえることだ。馬鹿にするな!」

    

実は、地元にはトヨタ自動車の下請け工場があったりして、必ずしも働き口がないというわけではないのです。しかし、そこで働いている人たちは日系ブラジル人など、海外からの働き手がほとんどなのです。なせ、こういうことになってしまっているのでしょうか。

       
   
   

「何とかならんのか」


   

私は当時の市長さんは、とても誠実な人だと受け止めています。合併後3年経ったある日、合併地区で合併を振り返るシンポジウムがあり、そこで市長さんと同席したことがあります。

   

挨拶で、市長さんは壇上で、住民に向かって、こんなことを吐露し始めるのです。

   

「合併して3年が経ちました。この3年、合併地区が疲弊しないように懸命に頑張ってきました。しかし、思うとおりにならなかった。皆さんはどう受け止めていらっしゃるでしょうか。合併しなかったほうがよかった、そういう声をたくさん聞きます。私も、心折れそうになるときがあります。合併しないほうがよかった、そういわれれば、そうなのかも知れません。でも、私はこの地区の自然と皆さんの生活を守りたかった。そのために何ができるのか、この3年間悩み続けてきました。これからも悩み続けることでしょう。わかってくれとは申しません。しかし、皆さんの手で、生活を維持してほしいのです。そのためでしたら、豊田市は懸命の努力を続けます。」

    

現役の市長という政治家が、市民を前にしてこんなに率直に思いを吐露し、弱音とも受け止められかねない言葉を発することは、普通はあり得ません。そこに私はこの市長の人柄と農山村への思いを感じていました。

    

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そしてその会場で、市長からいわれたのです。「先生、もう手がないのです。何とかならんのか、そう思います。何か手を貸してもらえませんか。」

  
   
    

政策・制度は社会心理的なもの


    

その後、豊田市の担当者から連絡があり、何ができるのか、検討することとなりました。私の感触では、これはどの地域にもいえることですが、住民の感情を無視して政策や行政施策を動かそうとしてもうまく動かないのです。これを、政策や制度は社会心理的なものだ、ということがあります。

    

官僚や行政職員が課題解決のために、合理的な思考にもとづいて、いくら政策や制度をつくっても、それは住民が使いたいと思えるようなものでなければ、使ってもらえません。その制度は合理的なものかも知れませんが、その合理性は論理の合理性であって、住民生活の合理性ではありません。

    

論理的に非合理に見える住民生活ではあっても、そこには地域コミュニティ特有の論理が働いていて、それが人々の生活の合理性を規定していることがよくあるのです。

   

だからこそ、住民生活の中に入っていって、その合理性を受け止めつつ、政策や制度を利用して、その生活を豊かにする方法を一緒に考える必要があるのです。

   

ですので、豊田市にはコンサルのように統計的な数字の処理による調査はしないこと、私と大学院生でチームをつくるので、1年間、合併町村の住民に話を聞く調査を行わせてほしいこと、を提案しました。この提案が受け入れられて、2008年の秋から1年間かけて、合併町村のうち豊田市のベッドタウンになっていて、人口が増え、利便性も高まっていた1地区を除く5地区を、院生を連れて訪問することとなったのです。

    

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※写真はイメージです。

             
   
   

「話すことは何もない。帰れ!」


            

しかし、言うは易く行うは難し、です。この1年間の調査は、すでに今では大学の教員になっている当時の院生たちが、二度と同じ調査はしたくないというほど、つらいものでした。

    

市から連絡を入れてもらい、訪問先の地区に出かけると、地区の顔役が待ち構えていて、怒鳴りつけられるのです。「何しに来たんだ! 話すことは何もない! 帰れ!」

    

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しかしこちらも、市長からいわれてきている以上、そう簡単に引き下がれません。仕方がないので、いったん引き返し、一升瓶を買って、市の職員に地元の集会所を開けてもらって2、3日泊まり込んでいると、よそ者が何をやっているのか、と住民がのぞきに来ます。そこをつかまえて、こちらも飲めない酒を飲み、酒豪の院生を人身御供にして、住民から話を聞き続けました。

    

一回2週間ほど、ときには地元の集会所、ときには理解のある住民の自宅に泊めてもらい、夏の暑いさなか汗びっしょりになり、冬の寒さに震えながら、それを1年間、幾度も繰り返したのです。

             
   
   

「オレたちもふるさとを捨ててるんだ、一回」


   

少しずつ気持ちが通いあってくると、地元の顔役たちの心もひらかれてきます。そうすると、次のような言葉を聞くことができるようになるのです。

   

「人が出て行ってしまう、過疎だ、高齢化だ、というけれど、そんなもの今から始まったわけではない。もう、オレたちが子どもの頃から、このあたりは人が出て行ったんだ。」

   

「今でこそ、オレたちは顔役だといわれ、偉そうなことをいって生きてるが、本当は、オレたちも捨てたんだ、一回。自分のふるさとを。」

    

「どういうことかって? まだ、あんたらが生まれるずいぶん前のことさ。高度経済成長で、トヨタ自動車が大きくなっていく、日本全体が農林業から工業の社会に発展していく過程で、農林業が犠牲になっていったんだ。減反政策がとられて、稲作が制限される。安い外材が入って来て、林業がダメになる。そういうことが、この地元でも起こったんだ。」

    

「もともと豊かなところだったんだよ。林業で栄えてね。山に入って檜の一本も切ってきて売れば、芸者を上げて遊べたんだ。そういうところだったんだよ。」

    

「多治見や瀬戸とも交流があって、良質の陶土がとれるっていうんで、窯業関係者もいたりしたんだ。」

    

確かに、地元には芸者の置屋の跡などが残っていて、当時の豊かさを物語っている場所がいくつかあります。

    

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「でもね、経済構造が変わっちまったんだね。もう、農林業じゃ食えなくなったんだ。それで、オレたちは中学校を終えると、地元を捨てたんだ。捨てさせられた、といってもいいけど、自分たちもそれに乗っかったんだ。時流、ってやつにね。」

    

「オレたちも、一回、捨ててるんだよ。ふるさとを。偉そうにしてるけどな。」

             
   
   

「博打をとるか、麻薬をとるか」


   

誰もが打ちひしがれたように、自分もふるさとを捨てていることを語り始めるのです。まるで恥ずかしいことでもしたかのように。

   

「でも、それって、仕方がなかったんじゃないですか。皆さんやお父さんお母さんがなんとかしようとしても、どうしようもなかったのではないですか。」

   

こう問い返すと、驚くような言葉が返ってきたのです。

    

「博打をとるか、麻薬をとるか。そういわれたんだよ、オヤジに。」

   

「えっ? どういうことですか?」

    

「オレたちが、中学校を終えようとすることに、親からいわれたんだ。博打をとるか、麻薬をとるか、って。お前、来年、中学を終えるんだけど、地元に高校がない。中学を終えて家業の農林業を継ぐか、サラリーマンになるか、っていわれたんだ。」

    

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「農林業は自然相手で、面白いが、年々政策も変わるし、自然相手だから不安定で、年に一回しか収入がない、しかも林業は植林してから長い年月を掛けないと収入にならない。先代が植えた木を、いまの俺たちが使って、さらに植林して、次の世代に送らないといけない。その間に、時代がどうなるかわからない。博打を打っているようなものだ、と。」

    

「ちょうどその頃にね、朝な夕なに、地元をマイクロバスが走ってね、親を乗せていっては送り届ける生活が始まったんだ。トヨタ自動車に季節労働者として働きに行き始めたんだよ。そうしたら、親がいうのにはね、サラリーマンは毎日同じ時間に出かけて、同じ時間に帰ってきて、同じ退屈な仕事を延々とやって、とてもつまらない。でも、毎月収入があって、今月これくらいもらったから、来月もこれくらいあるだろう、今年これくらいだったから、来年はこれくらいだろうと予定を立てられる生活が始まったんだ。」

    

「そうすると、まず家電品を買って、都市部と変わらない電化生活ができるようになった。車をローンで買って、乗り回すようになった。家をローンを組んでリフォームして、快適な生活ができるようになった。もうこうなったら、足抜けできない。」

   

「ローンということだけじゃなくて、そういう都市の消費生活の快適さに慣れてしまうと、もう後戻りできない。麻薬を喰らったようなものだ、と。」

    

「それで、親たちがいうんだ。お前、中学終わったら、博打をとるのか、麻薬をとるのか、ってな。」

             
   
   

「もう、放っといてくれ」


   

「それで、皆さんどうしたのですか? 麻薬をとったんですよね。」
 と聞き返すと、
 「子どもだから、どうしたらいいかわからないんだ。困っていると、親がぼそっというんだな。残念だが、麻薬をとれとしかいえない、って。」

   

「そういわれて、どう思ったのですか?」

   

「うれしかったさ。農林業なんて、今の言葉でダサいと思ってたからね。当時は、みんな農山村から都市に出て、サラリーマンになることが出世だと思ってたんだ。集団就職なんて言葉があって、実際に九州や東北から、ある中学校の生徒全員が名古屋や豊田に就職する、そのために夜行の集団就職列車が走ってたくらいだから。農山村に残るなんて、負け犬、という感じだったんだ。」

    

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「だから、親に麻薬をとれといわれ、学歴社会だからせめて高校は卒業しろといわれて、オレたちは地元を捨てて、豊田市内や岡崎なんかの高校に進学したんだ。高校を終える頃には、また親が、大学に行けるんだったら、行かせてやるから、頑張れって、いいだして、それでオレたちは大学に進学して、卒業後、トヨタ自動車や豊田市役所、愛知県庁なんかに入ったんだ。」

    

「それで、定年になって、まだ老親が地元にいたし、田畑があるし、仏さんやお墓があるから、地元に帰ってきたんだ。」 

    

「ずっと地元にいた奴もいたけど、誰も農林業じゃ食ってないんだよ。みんな二種兼業でね。郵便局員だったり、地元の村役場の職員だったり、小学校の教員だったり、ってね。」

   

「だから、何も褒められたことなんかないんだよ。」

    

「オレたちもふるさとを捨ててるんだ。子どもは都市部で生まれてて、孫たちもそう。盆暮れにじじばばに会いに来てはくれるけど、ふるさとに戻るっていう感覚はないね。」

    

「地元はもう、オレたちの代で終わりにするんだ。仕方がないだろ。もう終わりなんだ。」

   

「だから、もう放っておいてくれ。」

    

「最初に怒鳴りつけたのは、今さら何をしろっていうんだ、という思いと、何かしてくれても、もう何も手伝ってやれん、放っておいてくれ、っという思いからだったんだ。すまなかったな。」

    

二の句が継げませんでした。これまでの人生のいろいろな重荷を背負っての農山村の疲弊だったのです。それは単に人がいなくなるとか、耕作放棄地が増えるとか、働き口がないとか、そういう表面的なことにとどまらず、人が人として生きるための誇りのようなものと深くかかわっている、そう感じたのです。

             
   
   

「別れるんなら、ダンナに出て行ってもらう」


   

でも、こういう人ばかりではありません。各地で話を聞き続けていると、こういう元気な人たちとも知り合いになったりします。

   

兼業農家にお嫁に来ている、まだ小学生の子どもを持つような女性たちです。ある地区でこの女性たちの会合に招待されたことがあります。

   

「まああああ、先生と学生さん、よくいらっしゃいましたーーーー!」という歓声から始まった会合では、日々どんな暮らし方をしているのかが語られました。

    

印象では、とても丁寧な生活なのです。自分で土を耕して、野菜をつくり、果物を栽培し、さらに山野草を採りに出かけ、収穫した野菜や果物で、季節感あふれる料理をつくる。また、友だちとパンや漬物などの工房を開いて、日々忙しく製品づくりをしていたり、野生のつるやつたなどを使った手工芸や糸を紡いだ織布など、さまざまな工芸品をつくって日常使いにしていたり、販売したりしているのです。

  

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※写真はイメージです。

   

子どもたちも、こういう母親の姿を見ているからでしょうか。「地元をどう思う?」と聞くと、「大好き!」とこたえる子がほとんどで、「将来、帰ってきたいし、いられるのなら、ずっといたい」というのです。

   

これに対して母親は、「だめよ! 一度、ここから出ていきなさい。外からここを見て、それでもここに住みたいと思ったら、その外のいいものを持ってきて、ここを変えるつもりで帰ってきなさい」というのです。その通りです!

    

そして、快活に笑いながら、皆さん、こうおっしゃるのです。「私たちは、他所からここに引っ越してきて、ここの生活がとっても気に入っている。自然相手にあれこれ考えれば、何でもできる。とてもおもしろい。だから、もし、別れることになったら、ダンナに出て行ってもらう。」
ほー、っと思いました。やはり、やりがいや生きがいといった誇りが大切なのです。
(次回につづく)

     


     

 

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