生活・趣味

【寄稿】「農的な生活」が生む幸福論・1—田舎をめざそうプロジェクト(1)|〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる(11)

2023.01.5

〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる(11)
息苦しく不穏な時代の渦中にいながら、新しい⾃分の在り⽅を他者との「あいだ」に見出し、〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる人々がいます。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、その〈ちいさな社会〉での生き方を追い、新たな「⾃⼰」の在り⽅を考えてみましょう。
コロナ禍で確実となった「田園回帰」。その流れはすでに就職氷河期の頃から始まり、伏流水のように社会に深く潜り込んでいました。それが、コロナ禍で一気に浮上して、ひろがりを見せているようです。今回から、若者たちの「田園回帰」による幸せづくりの話です。

  


     

    

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

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シェアハウス


    

若者たちが移住して、新しい生活づくりに、もう12年も取り組み続けている地域があります。愛知県豊田市の旭地区です。ここの築羽自治区と敷島自治区を中心とした地域が、彼らの中心的なフィールドです。

    

最近の彼らの関心事は、もちろんコロナ禍で注目された多拠点居住を視野に入れたシェアリング・エコノミーとそれをさらに発展させた「分かちあい」の生活です。たとえば、山村の空き家を買い取って、それをシェアハウスに改造し、都市部の若者たちに貸し出して、二拠点居住を後押しする事業があります。

    

このシェアハウスは、若者たちに部屋を貸し出して、家をシェアするだけではありません。空き家になった農家をシェアハウスに改造するところから、都市部の若者たちにかかわってもらい、彼らの発想を生かした工夫をこらしたハウスに仕上げていくプロセスを経てつくられています。

   

しかも、この過程で、地元の若者やじいちゃん、ばあちゃん、それに子どもたちとの日常的な交流が組み込まれていて、みんなが一緒にシェアハウスを仕上げていくことで、その過程ですでに都市部の若者たちは地元に受け入れられていく、そういう仕掛けが組み込まれています。

    

その上、このシェアハウスは訪問客の宿泊所も兼ねていて、常に異質で多様な人たちがふれあい、交流しては、新しいアイデアを生み出し、共有して、それを農山村の生活で実現していくという流れを生み出してもいるのです。

    

シェアハウス「こラッセル」(現地にて撮影)
シェアハウス「こラッセル」(現地にて撮影)

   

また、このシェアハウスには地元の農家の人たちが出入りし、わけありの農作物をどっさりと置いていったり、何かあるごとに大広間で宴会が始まったり、庭でバーベキューをしたり、といつも誰かがみんなと何かしているのです。そしてそれらのお返しに、若者たちが農作業を手伝ったり、子どもの面倒を見たり、と楽しく交流することで生活そのものが回っていってしまう、そこはその拠点でもあります。都市生活では味わえない、ふれあいによる経済が動いているのです。

              
  
  

決まりではなく、いるということ


   

そして、部屋を借りている若者が、ここに住みたいといいだすと、移住者仲間に迎え入れられ、地元のじいちゃん、ばあちゃん厳選の空き家が紹介されて、新しい生活が始まります。気がついてみたら、コミュニティの一員になっている、という感じです。

   

でも、それは何も正式に自分を受け入れてほしいと表明したり、正式に受け入れますと表明されたり、という感じではなく、気づいたら、ある意味、なあなあでみんなの中にいた、という感じなのではないかと思います。

   

そこにあるのは、契約や誓約など、何かの決まりや正式の意思表明によって許可を得るというようなことではなくて、自分もそこに住みたいと思い、何かをやりたいし、住民のために役に立ちたい、と思う気持ちがあって、自分なりに何かをしていると、自然とそこで生活している仲間として位置づけられていってしまうとでもいったほうがよいような、ちょっとあやふやで、心許ないけれど、受け入れてもらえているという安心感がふわふわとやってくる、そんな感じの「いる」という在り方なのです。

   

プロジェクトのイメージ(プロジェクト代表・戸田友介氏提供)
プロジェクトのイメージ(プロジェクト代表・戸田友介氏提供)

   
   
   

「こラッセル」


   

シェアハウスは「こラッセル」と名付けられています。

   

ラッセルとは、地元の言葉で、していらっしゃる、という意味。「こ」は来です。つまり、来て下さる、いらっしゃる、という意味です。そして、いらっしゃるはそこにいるという意味でもあります。

    

いろんな人が、いろんな思いを抱えて、やってきては、自分のやりたいことをやって、それをみんなが面白がったり、受けとめあったりして、楽しんで、そのことがそのまま人のためにもなっているという関係が生まれることで、その人は「こラッセル」から「おラッセル」になる。「お」は「おる」つまり「いる」(居る)です。

   

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不思議な受け入れあいの雰囲気


   

そこにいることをそのまま受け入れあう自然体のかかわりが生まれる場所なのです。

   

ですから、「こラッセル」には、芸術大学を出て、都市部に住んでいながら、アトリエを求めてやってきて、自分の借りる部屋をアトリエにしてしまった人もいます。それをみんなが面白そうに取り巻いてみているのです。そこに子どもたちが、何描いてるのお? 僕にもやらせて、と乱入しては、場所を引っかき回します。それがまたアーティストの創造力を刺激するという、不思議な雰囲気があふれ出ることになります。

   

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よそ者が他人ではなく、よそ者であることで同居人、自然に受け入れあうことで、それぞれの生活が成り立ち、それがまた新しい生活をつくりだすことへとつながっていくような、受け入れあいが生み出す柔らかな空気が漂っているのです。

  
   
    

「つくラッセル」


    

この「こラッセル」には、「ラッセル」の先輩があります。「つくラッセル」です。

   

これは、地元のじいちゃん、ばあちゃんたちの母校で、100年以上も続いていた老舗の小学校が子どもの減少で廃校になってしまった跡地利用でつくられた地域の拠点です。移住した若者たちが、市から借り受けて、運営しています。

    

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※写真はイメージです。

   

私たちも手伝って、総務省から助成金を得て、地元の木材を使って、地域総出で内装を変えて、喫茶ルームや畳敷きの部屋、さらに教室をオフィス空間につくりなおした、木の香りが素敵なシェアオフィスなのです。

   

移住者の若者たちが、地元のじいちゃん、ばあちゃんたちに学んだ生活の技や地元の資源、そして自分たちが都市部で働いていた頃の経験や様々なネットワークから集めてきた情報を練りあわせて新しい仕事をつくり、それをみんなで事業化して、経済を回す仕組みができあがっているのですが、この仕組みから立ち上がった事業体の本部が、ここにおかれているのです。地元経済の要が、「つくラッセル」です。

   

「つくラッセル」とは、もうおわかりですよね。つくる+ラッセル=つくっていらっしゃる、つまりここから地元の新しい生活がつくられる、地元の人々がそれぞれに新しい生活をつくらっせる場所としての「つくラッセル」なのです。

             
   
   

電気自動車のシェア


            

「つくラッセル」で最近のヒットは、電気自動車のシェアサービスを始めたことです。

   

学校の跡地ですから広い校庭があり、その校庭は地元のじいちゃん、ばあちゃんたちのマレットゴルフ場として整備されているのですが、半分は空き地。

    

そこを利用して、間伐材を使った薪づくりの資材置き場になっていたり、駐車場になっていたりしたのですが、最近そこに電気自動車のブースをつくって、その屋根に太陽光発電パネルを設置し、充電ステーションを整備したのです。クルマはもちろん山間地仕様の一人乗りの軽快なビークルです。

    

これをじいちゃんたちが山道をものともせずに、暴走族よろしく、乗り回しています。

   

この電気自動車シェアは、実はこの若者たちが移住したフィールドである集落のエネルギー自立の構想と結びついています。

   

「カー・シェアリング」の電気自動車(現地にて撮影)
「カー・シェアリング」の電気自動車(現地にて撮影)

    

今後、様々に激甚災害が予測される中、中山間村は交通が遮断されて孤立しやすく、医療インフラも脆弱なため、万一孤立しても当面の間持ちこたえるために、エネルギーの自立が検討されてきたのです。現在は、太陽光発電と小水力発電、それに間伐材の木質チップを使ったボイラー発電などを組み合わせて、この集落で電気をつくり、消費するサーキットの構築が構想されています。

    

そして将来的には、燃料電池車などを導入して、緊急時の電気需要を賄うことなどが計画されているのです。

             
   
   

みんなで使いあう


   

「つくラッセル」には、若者たちが起業した事業体の本部が置かれています。

   

たとえば、地元の食材を若者たちの新しい感覚でアレンジして、完全オーガニックで身体に優しくて美味しい食品に加工している「竹々木々工房」、子どもたちの自然体験活動を受け入れている「山っこくらぶ」、地元のばあちゃんやじいちゃんが若者に生活の知恵を授ける「山里手習い塾」、電気自動車のシェアを通して「チョイノリ」による人々の交流を進めている「里モビニティ」などがあります。

   

そして、事業体だけでなく、地元の人たちが何かあるたびに、ここを使っては、楽しい生活を生み出す拠点になっているのです。

    

たとえば、春先、タケノコが大量に取れたといっては、みんなで集まって、皮をむいて、メンマづくりが始まったり、消防団の操法大会があったといっては、打ち上げのバーベキュー大会をやったり、社会福祉協議会と一緒になって「認知症カフェ」「うたごえカフェ」が開かれたり、ちょっと美味しい食べ物をつくりたいと「シェフ伊藤のCooking教室」が開かれたり、と年中休む暇のないほどに使われているのです。

   

この拠点の活用を通して、地元の人たちがさらに絆を深め、お互いに支えあう関係がつくられ、そこに移住者の若者たちがかかわることで、思いもよらない新しい事業が生まれ、それが地域を刺激して、新しい人間関係と生活をつくり出すことにつながる。こういう不思議な流れが生まれているのです。

    

「つくラッセル」ホームページ
「つくラッセル」ホームページ

             
   
   

「あんじゃない」


   

若者たちのシェアの感覚は、単に経済的な生活を回しているだけではありません。もっと根本的に生活そのもののシェアにまで及んでいます。それが形になったものが「あんじゃない」です。

   

「あんじゃない」とは、地元の言葉で「心配ない」「案じることはない」という意味です。これが形になったものとはどういうことでしょうか。

    

後述しますが、このプロジェクトは私が2008年から地元にかかわって進めてきた一つの新しい農村づくり事業の一環でした。そのとき、移住してきた若者たちを受け止めて、一緒に村づくりをしてきたじいちゃん、ばあちゃんたちが、そろそろちょっとおもしろくなってきたのです。つまり、年齢を重ねるにつれて、身体がいうことを聞かなくなり、頭までもがどうも自分のものではないかのような感覚になってきた、というのです。これまででしたら、都市にいるじいちゃん、ばあちゃんの子どもたちに引き取られていったのですが、地元のじいちゃん、ばあちゃんたちはそれが嫌だというのです。

   

「ここには、自分の子どもや孫よりも可愛い子どもたちがいる。なんで、息子のいる町なんぞに引き取られていって、不慣れな生活をせなならんのか!」「これまで通り、このふるさとで、最期のお迎えが来るまで、この子たちと一緒に暮らしたい」、こういうのです。

   

この思いを受け止めた若者たちが考えたのが、フィールドになっている集落を一つのグループホームに見立てて、その拠点をつくって、それを小規模デイサービスのようにして運用して、彼ら若者やその子どもたちとじいちゃん、ばあちゃんたちが寄り添いながら生活できる「里」づくりなのです。

    

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その拠点として、彼らが空き家を買い取ってつくったのが「あんじゃない」、つまり地域密着型通所介護小規模デイサービスの施設なのです。

             
   
   

暮らしを分けあい、生きるを分けあう


   

「あんじゃない」は、いなかの農家と同じで、出入り口がどこだかわからないくらい開けっぴろげです。

   

そこに毎日、地元のじいちゃん、ばあちゃんたちが通ってきては、お茶をすすり、一緒にご飯をつくっては、話に花を咲かせています。そこに、子どもをおぶった移住者の若者たちが出入りし、赤ちゃんがばあちゃんに抱かれてニコニコし、ばあちゃんも赤ちゃんの顔を見つめてニコニコし、若いお母さんたちもその姿を見てニコニコする、そしてお互いに認めあい、助けあい、受け入れあっていることを、心地よく感じつつ、一緒に居る。そこに、学校から帰ってきた子どもたちが乱入しては、場を引っかき回し、じいちゃんたちがそれをつかまえては、竹細工を教えたり、焼き芋づくりを手伝わせたり、野菜を切らせたりする。そして、みんなで一緒にご飯をつくり、食べ、バイバイといって、帰っていく。

   

こういう日常が穏やかに過ぎていくのです。ここでは、シェアはものを持ちあう、共有するということからさらに進んで、暮らしを分けあい、生きることを分けあうような、命のより深いところでつながっていながらも、それを誰もが自分のものとして持っているのに、誰もがそれを独り占めできないというような、そういう在り方としての分かちあいが生まれているのです。

    

「あんじゃない」のイメージ(代表の戸田友介氏提供)
「あんじゃない」のイメージ(代表の戸田友介氏提供)

   

ここでは、お年寄りは若者に寄り添われ、若者はお年寄りに寄り添われ、子どもたちはお年寄りに受け止められ、認められ、そうすることで誰もが自分がそこに居てもいい、そう思える関係に満たされた空間と時間が生まれています。人として、より本質的に誰かとつながっている、そう思える場所として「あんじゃない」があるのです。

             
   
   

悲しみを分かちあう


   

経済学者の神野直彦さんは、経済学は悲しみを分かちあうためにあるのだといいます(『経済学は悲しみを分かち合うために』、岩波書店)。これは、経済学に限らず、私たちが社会をつくっているとはどういうことなのか、ということと深くかかわる観点です。どういうことなのでしょうか。

    

私たちは、自分が個人としてこの世界に生きていて、この個人が社会をつくっていると考えています。しかし、そうでしょうか。私たちは自分で望んでいないのに、この世界に産み落とされ、世界の中で、つまり人々の中でことばを身につけ、知識を学び、悩みや苦しみを抱え、悦びや楽しさを覚えて、大きくなってきました。

    

私たちはたった一人では、この世界に生まれることも、生きることもできません。だからこそ、私たちは自分一人で生きていると思っても、目の前で誰かが苦しんでいれば、それから目を背けることはできないのではないでしょうか。

    

いくら、人は人、自分は自分と、他人に関心をもたないようにしている人でも、目の前で、誰かが苦しみ、悲しんでいれば、気を引かれ、かわいそうに思い、何かできないかと考えてしまうのではないでしょうか。

    

これが、私たちが、社会をつくっていることの根源的感情です。これを、ルソーは一般意志といいました。誰もがその人のことを気にかけ、もし自分がそうだったら、やはり悲しいし、苦しいのではないかと、同情してしまう。そういう感情は、誰もが否定し難く持っている。そういうことです。

    

だからこそ、誰もが相手の悲しみや苦しみを慮って、我が身にひきつけて、それをなんとかしようとする、つまり分かちあおうとする。そうすると、悲しみや苦しみが軽くなって、悦びが生まれる。

    

そういうことが、この社会の基礎、つまりみんなで少しずつ負担しあって、みんながより幸せになれるようにしましょう、という制度の基礎となっているのです。経済とは、それをモノやおカネのやりとりとして制度化して、お互いに知らない人々の間でも、分かちあいが生まれるようにした人々の営みです。

    

「あんじゃない」がつくりだす「生きるを分かちあう」コミュニティの姿は、このことをそのまま表現しているとはいえないでしょうか。

    

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そして、このコミュニティで若者たちが生み出した生活の在り方が「農的な生活」なのです。

    

次回からは、このコミュニティがどのようにして生まれたのかお話しします。


     

 

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