新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
子育て・教育
2021.05.24
この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
もう、ちょっと、いい加減にして欲しい、と思わないではありません。緊急事態宣言が解除となり、小中学校が授業を再開しました。またこの秋から新学期が始まったことにともなって、子どもたちも、短くなった夏休みを過ごしたあと、日常を取りもどすかのようにして、学校に通い始めました。
でも、それはすでにコロナ禍以前の日常生活ではありません。三密を避け、マスクを着用し、手洗いとうがいを励行し、常に換気を行わなければなりません。コロナと共存するための新しい生活を送ることが求められているのです。
その後、大学にも順次、対面授業再開の要請が文部科学省からなされ、対面授業の割合が3割とも5割ともいわれる比率に達しない大学は、大学名を公表すると脅されています。大学名を公表して、どうするというのでしょうか。ネット民に晒して、バッシングさせるということでしょうか。それを要請というのでしょうか。
文科省の理屈は、小中学校が対面で授業をやっているのに、大学がやらないのは社会的な理解が得られない、ということだと聞いています。本当にそうなのでしょうか。それこそ、もういい加減にしてくれ、という話なのです。
小中学校で授業が再開されたとはいっても、分散登校をしたり、教室では、子どもどうしの間を空けた上で、さらに休み時間毎に先生方が子どもたちの机をアルコール消毒し、換気をしたりするなど、かなりの手間と暇をかけて、細心の注意を払って、対応していると聞きます。先生や職員の方々の負担は大変なものなのではないでしょうか。
私がかかわっている地域の学校は、近隣の住民が見かねて、校内消毒のボランティアで入っていると聞いています。それほど、大変なのです。
しかも、小中学校は教室と机・椅子はいわば固定制ですから、子どもたちの安全を確保することもそんなに難しい話ではないと、先生方はいいます。また、小中学生は接待をともなう飲食店に出入りすることはありません(中には保護者と一緒にいく子どもがいるかもしれませんが)から、そういう面でも、安心です。
しかし大学はどうかというと、まず学生の行動は把握しがたく、20歳を超えれば、夜の飲み会などにも出かけていきますし、サークルや部活などが再開されれば、仲間どうしで、飲み屋や接待をともなう飲食店に出入りするようになります。また、教室も机・椅子も固定制ではありませんから、発症した学生がいたとしても、その学生がどこに座り、その周囲に誰がいたのかは把握することができません。
いま(この原稿を書いている11月中旬)でも、私の大学でもほぼ毎日新たな感染者が報告されていますが、何月何日以降にキャンパスに入っていないことを確認、という情報が流れるだけで、その学生が、何月何日の何時間目のどの授業に、どの教室のどの座席に座っていたのか、またその職員がどのような行動を取っていたのかの特定は難しく、特定しても、その周囲の学生やかかわった人がわからないので、濃厚接触者を探し出して、注意を喚起することはほとんどできないのです。
消毒を誰がどのようにするのか、この大きなキャンパスで、という問題もあります。
さらに、三密を避けて授業を行えというのです。たとえば私の授業などでは、通常、受講者が100人くらいいます。その彼らが3人または5人に1人という間隔で座るとしたら、3人に1人の割合でも、300人収容の教室が必要となります。受講者がもっと多い全学向けの授業ですと300人くらいいますから、サボって出てこない学生がいるとしても、形式上は900人収容の教室を準備しなければなりません。
そんなに大きな教室は普通の大学にはありませんし、そうなればもう講堂を借りるしかありません。私だけではなくて、多くの教員がこういう教室を必要とするようになるのです。
それで、無理だという話をすると、文科省は、対面とオンラインの併用で授業をせよといってきます。ハイブリッドだ、と。
では、なぜオンラインで行ってはいけないのかと問い返すと、大学の教員が怠けているのではないかと社会的に批判されているからだ、という返答が返ってきます。
社会的には、大学の教員はいいご身分だと思われていることは知っていますが、文科省がやることは、社会的な勝手な批判を右から左に子どもの使いのように流すことではなくて、大学が未曾有の事態に直面して、学生たちの健康と命を守るために、そして学ぶ機会を保障するために、オンライン授業を新たに実施しており、そのためにいかに大変な思いをして、準備をし、設備を整え、教員たちも何度も研修を受け、授業が効果的なものとなるように努力しているのかを社会に向けて発信して、社会の不安や不信感を拭い去ることなのではないでしょうか。
そういうことすらせずに、ただ闇雲に、対面にせよ、といっているだけでは、いたずらに不信感を増幅するだけで、まったく意味がありません。
しかも、対面とオンラインの併用では、対面で授業を受けに来る学生は、大学への通学の間、公共交通機関を使って、密な状態になるかも知れません。また対面授業とオンラインの授業では授業効果が異なるかも知れません。
感染の危険を冒して大学に来る学生とそうではない学生がいて、授業効果も一様ではない。それこそ不平等ですし、不公平ではないでしょうか。平等や公平を伝家の宝刀の如く振りかざす文部行政としては、矛盾だらけではないでしょうか。
なぜ、授業の特質(たとえば実習や実験などはどうしても実地に行う必要が出てきます)や大学の状況に応じて、臨機応変に行ってはいけないのでしょうか。なぜ、一律に、という強制力が働くのでしょうか。一律にしないと不公平であり、不平等なのでしょうか。
そうであれば、なぜ対面とオンラインを併用せよ、ハイブリッドだなどという議論が出てくるのでしょうか。どうしても対面で行わなければならないのであれば、これからは三密を避けなければならないのですから、各大学に1000人規模で入れる教室をたくさん建設したり、さらに換気設備を増設したり、また消毒や環境整備を行う職員を雇用したりするだけの予算をつけるべきですし、公共交通機関で三密にならないような措置をとるべきです。
またしても現場に無理を押しつけるのでしょうか。コロナ禍で医療関係者に無理を強いているように。
しかし、私がいい加減にしてくれ、と思うのは、このことが大きな理由ではないのです。
たとえば、小中学生が登校を再開し、子どもたちは学校で授業を受けるようになりましたが、その後、授業が楽しいとか、学校で先生の教えることがとてもよくわかって、勉強が楽しくなったとか、そういう報道にはほとんど触れたことがないのです。
皆さんはいかがでしょうか。私が触れている報道では、学校で友だちに会えて楽しいとか、みんなで一緒に部活ができてうれしいとか、なんだかいわゆる授業や勉強以外のところで、子どもたちが楽しいとかうれしいとかいっているのであって、学校という場が授業を受ける場ではなくて、友だちとの交流の場になっているのではないかと思われるようなことばかりなのです。
そして確かに、私がつきあっている小中学生や高校生たちは、異口同音にこういうのです。学校に行けるようになって楽しいけど、休校期間中にオンラインでいろいろな勉強の仕方を覚えてしまったし、そのなかでいろいろな講師にも出会って、おもしろい授業があった。それを聴講してしまうと、学校の先生の授業ってつまらないし、何やってんだろうと思う、と。
じゃあ、何で学校に行きたいの?と聞くと、これもまた異口同音に、だって友だちと会えるし、部活が楽しいから、というのです。
これがいけないというわけではありません。そういう場が学校であることも悪くないと思います。
そして、そうであれば、何も学校だけがそういう場である必要もありません。地域社会に多世代で交流できたり、異年齢で学びあったりできる場があってもよいでしょうし、それこそおとなたちがさまざまな体験を子どもたちにさせられるような機会をたくさんつくってもよいはずです。
文科省はコロナ禍が広がり、休校措置がとられたことに対応して、大慌てで、予算をつけて、GIGAスクール構想を前倒しで進め、今年度中には全国の小中学生に一人一台タブレット型のパソコンが配備される予定になっています。
それを受けて、個別学習をどんどん進め、子どもたちの間で教えあい、学びあいの活動が展開するのかと、期待していました。でも、そうではないようなのです。
それぞれの子どもの学習進度が違っては不公平だからと、タブレットを持って教室に集まって、そこでみんなで、同じ教材で、同じことを、個別に学ぶという実践が始まっていると聞きます。
私の知人のお母さん方は、呆れる、学校って変わらないわねえ、と皆おっしゃいます。私もそう思います。
新しい学習指導要領が今年から小学校で実施となり、年次進行で、今後中学、高校へと進んでいくのですが、そこでいわれているアクティブラーニング、つまり主体的で対話的で深い学びとは、そんなことをいっているのでしょうか。GIGAスクール構想は、そんなことを目指しているのでしょうか。そうではありません。
これまでのような、工業社会に対応した集団主義的な、皆が同じものを同じ方法で、一斉に学んで、学んだ成果をある時点で測定して、序列化するというような、いわゆる部分最適の学習をやめて、一人ひとりが自分にあった学び方で、探究的に学び、その成果を仲間やおとなとの対話的な関係の中で教えあい、学びあって、さらに探究して、新しい知識を発見したり、価値をつくりだしたりする、その過程で発見の喜びや創造のうれしさを感じとって、それがさらに次の探究につながる、こういう学びを組織することが学校に求められているのです。
だからこそのコミュニティスクールですし、地域が学校とクルマの両輪のようにして子どもを育てることが求められているのです。それなのに、なぜまた、みんな同じでなければならないのでしょうか。
しかも子どもたちは、学校で学ぶことよりも、オンラインや塾で学んだ方がよくわかるし、楽しいといっていて、保護者の方々も子どもたちと観点を共有しているのです。
大学も同様です。大学が大学であるのは、対面授業をやっているからではありません。知的な共同体として、知的な刺激を受ける時間と空間にどっぷりと浸かる経験ができる場所、それが大学でなければならないはずです。
この場合、場所とは大学のキャンパスというだけに留まりません。キャンパスにおらずとも、常に自分の心の片隅には知的なものへの渇望があり、本を読み、様々なことどもに触れ、社会体験を重ねることで、その知的な渇望が活性化され、さらに知的な活動へと自分を駆動し続け、自分が日々変わっていくことの快感に浸る、そしてそれに寄り添い、それを刺激する知的な探究を仕事とする教師がいる、そういういわば知的活動のイマージョンが実現されている場所、それが大学であったのではないでしょうか。
しかし、私のいる大学も含めて、いまや大学はそうではなくなってしまっています。学生たちは、大学に来て授業に出ることが学びだと考えているようです。
そこで起こるのは、知のサービス化です。私たち教員にはシラバスという授業計画をつくることが求められ、そこには事細かに毎回の授業内容を書かなければならず、それが学生との契約だといわれ、その契約通りに授業を行うことが半ば強要されます。シラバス通り授業を行わないと、学生から訴えられる大学もあると聞きます。
しかも、授業ではパワーポイントなどのプレゼンテーションソフトやプロジェクターなどの機器を用いることが求められ、黒板を使った授業はどんどん駆逐されていってしまいます。そして、予定されたプログラム通りに、予定されたプレゼンを行うかのような授業が、優れた授業としてもてはやされたりします。
でも、そんな授業は教える側の教員にとって、愉しいもの、心沸き立つものなのでしょうか。そして教員が愉しいと思えない授業は、学生にとってもつまらないものなのではないでしょうか。
なぜなら、その授業では、予め決められたプログラムに沿って、決められた内容を、決められたように伝達することが目的化され、学生たちもパワポの資料をもらい、または投影されたスライドをスマホで写して、学んだつもりになっているだけで、授業の教室を離れてしまえば、あとは試験の時に見返すまで、忘れてしまっているものとなるからです。
自分の知的な生活とは何のかかわりもないもの、それが大学の授業となってしまうのではないでしょうか。
私は授業でパワポを使ったことがありません。本来、授業とは、こちらが一方的に学生たちに語りかけているものであっても、常に学生の反応を見ながら、語り口を変え、語る内容をも組み換えているものですし、しかも、語るうちに新たな発見があって、そちらに話を展開してみたくなることも往々にしてあるからです。
だから、黒板に白墨なのです。まるで数学者が黒板と白墨を愛して、数式を展開するかのようにして、自分の語っていることに刺激され、駆動されて、新たな観点や考えが次々に生まれてくるものを、学生たちに語りかけながら、自分で構成して、黒板の上に書き出していく。
それを学生たちはノートに取り、私の語りかけを聞き、さらにそれをノートに筆記しつつ、自己と対話して、新たな発見が促される。そういう、知的な往還関係が、大講義においても生まれているものだからです。
しかし、こういう授業は、授業に出席することが大学での学びであり、知識を伝達されることが学びだと考えている学生には不評です。よく苦情を受けます。シラバス通り授業をやって欲しいとか、新しいことを求めているのではない、とか、そういうことを平気でいってくる学生もいます。
そして、そういう学生に限って、本はほとんど読んでいません。そういうことはこの著作に書いてあるから読んでください、と伝えると、授業で指定されていないから読むつもりはない、という返事が返ってきます。
私はいまだに抵抗を続けていますが、同僚の中には、授業を愉しむことは諦めて、自分の著作をそのままパワポにして伝えるだけにしてしまった教員が幾人もいます。こうして、知的共同体は単なる知識の伝達組織またはサービス提供機関に変わっていってしまいます。
これが大学が創造性を失ってしまい、学生や保護者という消費者によって消費されてしまうことの、そして知が公共財であることをやめてしまい、消費財となってしまうことの、そしてそれが帰結するこの社会のイノベーションの起こらなさということの、日常的な風景なのではないでしょうか。
知的なものへの渇望も、それを得、自らが変わることへの喜びも、そしてそこから新たな知を創造する愉しさも、もう何もない、単なる消費財としての知識という商品があるだけの世界、しかもその商品は新たに創造されるものではなくて、すでにあるものが使い回されるだけに終わってしまいます。
その上、大学で対面授業を復活させて欲しいという要求は、ほとんどがキャンパスライフを謳歌したい、友だちと会えなくて寂しい、クラブやサークル活動を再開したいという、いわば対人関係をめぐる議論が中心で、大学の本来の使命である知的な共同体として、学生たちとともに、公共財である知を創造し、社会を変革する担い手となるということにかかわるような議論ではないのです。小中学生と同じなのではないでしょうか。
私も大学の教員として、キャンパスライフの重要性は重々承知していますし、コロナ禍のオンライン生活でメンタル的につらい思いをしている学生がいることも知っています。
しかしそうなら、それは授業を対面で行うことを強要する理由にはなりませんし、ましてや小中学校がやっているのに大学がやらないのは社会的に許されないなどという屁理屈をこねる理由にもなりません。それに対応したかかわり方を採用したり、つくったりすればすむことですし、オンライン授業を始める前からメンタル的に負担の大きな学生には対応が求められていました。なぜ、対面授業にこだわるのかが理解できないのです。
私は、大学の教員であるとともに、コロナ禍で入学式がとりやめとなった2020年度に、下の子が大学に入学した父親でもあります。その子からも、大学がオンライン授業となってしまって、なかなか友だちをつくることもできず、入ったサークルでも交流ができなくて、寂しいし、つらい思いをしていると吐露されることもあります。
また私自身、大学に進学して、自由を謳歌し、専門とは異なる分野の本をかじり、様々な社会体験をし、友だちをたくさんつくった経験がありますから、この時代のキャンパスという場所の重要性はよくわかっています。
しかし、それが授業を対面で行えという理由にはならないのではないでしょうか。私の下の子は、下宿でオンライン授業を受けつつ、さらにサークルの先輩たちと研究会を毎週の如くオンラインで行い、夜遅くまで議論し、オンラインでセミナーを受け、オンラインでプレゼンし、オンラインで語学を学び、オンラインで友だちと料理をつくりあい、オンラインで家庭教師をし、オンラインで海外の友だちと会って、それなりに生活を楽しんでいるようです。
それで、「授業はどうなの?」と聞くと、「う〜ん、対面でやってるよりも先生が近いし、質問もしやすいから、却っていいかも。実験とか実習も、先生が手順を示してくれて、それをあとから自分でいろいろネットで調べてレポートを書くと、それなりに勉強になるし、結構楽しいかも」といっています。
専門によってはどうしても対面でなければ、とか、どうしても現地に行かなければ、ということもあるかと思いますが、授業をこれまでのようにすべて対面で行うことがどうしても必要だということではないと思います。工夫次第で、さまざまな授業のあり方があってよいのではないでしょうか。
しかもその子がこんなことをいうのです。「でもさあ、先生って、お父さんもそうだけど、オンラインでの授業って、大変じゃない? だって、これまで対面で授業してればよかったけど、そしてこれまでの経験があったから、どうやったらいいのかだいたいわかっていたんだと思うけど、オンラインの授業って初めての経験だろうし、資料をつくり直したり、授業の進め方を工夫したり、あとレポートがかなり頻繁に出されることになったって聞いてるから、その添削や採点なんかも含めて、先生たちのストレスって大きいんじゃないかなあ」と。我が子ながら、よくできた子で、なんていっている場合ではなくて、本当にそうなのです。
オンラインで授業をやり続けることは、新たな教授法を開発しなければならないことでもあり、学生とこれまでとは異なるかかわり方をすることになるのですから、大学の教員が怠けているなどという問題ではないのです。
一時、トランプさんがアメリカ大統領になった頃からでしょうか、反知性主義という言葉が一世を風靡したことがありました。
反知性主義といういい方は、リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』(日本語版は、田村哲夫訳、みすず書房、2003年)が嚆矢だとされます。
▶リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』(田村哲夫訳、みすず書房 )
日本でも、森本あんりさんの著作『反知性主義—アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書、2015年)や内田樹さん編著の『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)などに詳しく書かれています。
▶ 森本あんり『反知性主義—アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)
反知性主義とはなんなのでしょうか。知性に対して反対すること、知性に対して冷淡であること、こんなイメージを持たせる言葉です。もっといえば、無知であることを知らず、それを恥ずかしいとも思わないこと、という印象も抱きます。
しかしそれでは、「主義」という言葉が入っていることが説明できなくなってしまいます。「主義」とは一般的には、常々持っている意見や主張、思想上の立場ということでしょうし、さらにいえば自分の行動の指針になる原則や思想、さらには態度・ものの見方ということでしょう。
そうすると、反知性主義とは、単に無知であることを恥ずかしいと思わないとか、知性に反対するというだけでなく、もう少しその人自身の基本的なものの見方や態度、さらには意識的な行動の原理原則というようなものであるように思います。
さらに、「知性」という言葉が引っかかります。「知性」とはどういうことなのでしょうか。知的な人、というと、知識をたくさん持っている人、というイメージなのでしょうか。たとえば、最近、東大生を揶揄していわれる言葉に「クイズ王にしかなれない」といういい方があると聞きましたが、まさに「クイズ王」のような物知りのことでしょうか。
知性溢れる人、といういいかたもしますが、性というのは心に生まれるという意味をあわせた会意文字で、生まれながらにして持っている本質的なもの、という意味です。そうすると、知がその人の本質的なあり方としてある、それが溢れるように周囲の人にも影響を与えている、そこまで行かなくても、周囲の人の目を引く、そういう人を知性のある人、知的な人というのでしょう。
このことに関して、ホーフスタッターは、反知性主義は、思想に敵意を抱く人によってつくられたものではなくて、むしろ知への情熱を持ち、しかし陳腐な思想や認知されない思想に取り憑かれていて、人の話を聞こうとしない、頑迷な知識人が陥りやすいと指摘しています。
これを内田樹さんは、こういっています。「「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺らがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。」(「反知性主義者たちの肖像-内田樹の研究室」)
これを私なりに咀嚼すると、ある思想に固執してしまい、変わりたくない、という自分の感情を、変わる必要がない、変わってはならない、と屁理屈をこねて、あれこれいい募り、その結果、何も変わらないままにしておいて、それで満足を覚える人たち、ということになります。それはまた、変わりたくないというよりも、変わることに不安を覚えている、または変わることが怖いということ、その感情を認めたくなくて、あれこれ屁理屈をこねては、その感情を合理化し、いかにも自分が知的であるかのように振る舞っている人、ということになります。
こういってしまうと、なんだか東大の教員にもこういう人がいるような感じがしてしまいます。安冨歩さんのおっしゃる「東大話法」がまさにこの反知性主義の話法なのです(安冨歩『原発危機と「東大話法」—傍観者の論理、欺瞞の言語』、明石書店、2012年)。私も気をつけなければ・・・・・・。
▶安冨歩『原発危機と「東大話法」—傍観者の論理、欺瞞の言語』明石書店
しかもこれが社会のある種の「気分」といいますか、または心理学化してしまった社会の雰囲気といいますか、そういうものと結びついて、学生たちを含めた社会の頑なさのようなものを招いてしまっているように感じます。
「社会の心理学化」とは、心理臨床家の斎藤環さんの言葉です(『心理学化する社会』、河出書房新社、2009年)が、社会の様々な事象を心理学の言葉で表現することで、不安や病理の表れとして解釈して納得してしまったり、一見問題がないように見える社会状況を、問題への予兆を持ったものだと解釈することで、社会不安をかき立てたりすることが常となった社会のあり方をいいます。
▶斎藤環『心理学化する社会 癒したいのは「トラウマ」か「脳」か 』河出書房新社
たとえば、個人の様々な問題状況はすべてトラウマが引き起こしたものとして解釈され、その人の生育史に原因を探ろうとするような社会的な操作のあり方をいいます。アメリカ映画などによく出てくる幼少期の母性の欠落が成人してからの反社会的人格を形づくったというような家族の物語は、その典型かも知れません。
そして、そういう社会の雰囲気は、人々の生きづらさにかかわります。自分が対人関係で苦しむのは、幼少時のトラウマが原因に違いない、生育史に問題がある、両親の自分へのかかわり方が間違っていたからだという解釈をしてしまうということになります。
そしてその裏返しが、他者から何か批判めいたことをいわれると、それが一気に人格批判にまで吹き上がって、ムキになって反撃するという行為なのではないでしょうか。
ゼミでは、学生や院生の発表に対して、ゼミ生たちが質問したり、意見をいったりし、また私がコメントをつけたりして、議論し、論点を深めようとするのですが、ここ数年、議論が成り立たないことが増えています。
学生や院生たちは通り一遍自分の意見を、しかも当たり障りのない、口当たりのよい意見をいっただけで、議論になることを避けてしまうのです。そして、一通り順番が回ったところで、ゼミの幹事が、「先生、院生からの発言は以上です」といって、発言を打ち切ってしまうのです。私から、「質問や議論したいことはないの?」ときいても、「いえ、いいです」という返答。「いや、議論の場なんだから、いいです、じゃだめでしょう」というと、「あ、でもいいです」という返事。
それで、私からはそうではないでしょう、というのですが、あるとき院生からこういわれたことがあります。他の院生の意見に自分の意見をぶつけると、人格批判になるから、関係が壊れてしまうことが怖い、と。これには驚きましたが、そうか、という思いがしたことも確かなのです。
なぜ、議論しないのか、といえば、議論することそのものが相手の人格批判になる、あなたのいっていることに対して異論がある、このことは、あなたの議論があなたの人格に深くかかわっていて、それはあなたの生育史に問題があるからだ、だからあなたは人から異論を呈されるような議論しかできないのだ、という解釈になるようなのです。そうすると、異論を呈することはその人の人格を否定することになり、関係を壊してしまいますし、それがさらに生きづらさにかかわってきてしまって、さらにそれがトラウマ論と手を結んでしまう。こういうことのようなのです。
ですから、院生たちは当たり障りのない感想や相手を持ち上げるような意見をいって、お茶を濁してしまうのです。最近急速に広がっている、相手を尊重するかのようなふりをして、「さん」づけをしたり、相手の意見を「・・・・・・おっしゃる」とか「・・・・・・いらっしゃる」といって持ち上げたりするような発言は、そのことを表していたのです。
知的な議論をしているはずが、自分が語ったことに対して意見をいわれたり、質問されたりすることを人格攻撃だと受け止めてしまい、ゼミが議論の場ではなくて、攻撃と反撃の場になってしまうのです。だから、院生たちは通り一遍の感想を述べただけで、議論をしないのだと、改めて思い知らされたのです。
でも、こうなると、ゼミでできることは、その院生が発表したことに対して、コメントをつけるのですが、それは「よくやっていますね」とか、「それはすばらしいですね」とかというお褒めの言葉であることくらいになってしまい、その院生のやっている研究を深めるための対話はできなくなってしまいます。
批判して潰そうとすることなど、ゼミではあり得ません。そこは教育の場であり、学びの場であるのですし、私たちは自分の研究成果を次の世代に還元しつつ、新たな知の担い手を育成する事業に参加しているのですから、批判的な意見をいっても、それはその院生の論理を鍛えるためのものであって、つねにこうしたらどうかという提案を含んだものです。しかし、そういうことをすると人格を否定したことになってしまうのです。
これはいまやこの社会の雰囲気として人々の心深くに巣喰っている心性なのではないでしょうか。誰もがオレのいうことを聞けと、誰かに向かって要求し続けている、しかし誰もがそういっているのですから、誰も自分の意見を聞いてはくれません。そうすると、社会にはオレを認めろコールが満ち満ちることとなり、それに対して誰かが何かをいおうものなら、人格を否定されたと受け止めて、それこそ人格をかけた攻撃が始まる。こういうことになってはいないでしょうか。
ここには信頼と寛容という社会の基盤となるものは存在しません。それで、私の同僚も含めて、ゼミでは院生と深い議論をせずにすませてしまい、その結果、院生たちは研究を深めることができず、論文も採用されず、ということになります。そうすると今度は、指導してもらえないといって訴えるという悪循環です。
それについて、あるとき、幾人かの院生に、一体どうなっているのかと聞いてみたことがあります。その時の彼らの反応は、とても勉強になるものでした。基本的に、自分がやりたいようにやらせてくれること、そうすることで研究成果が上がって、論文が書けて、大学のポストを得られること、つまり自分を気持ちよくさせてくれて、その結果、自分の研究が進むようにしてくれて、大学の研究職のポストを得られるようにしてくれることを指導教員には求めている、というのです。すべて「してくれる」という表現になっているところがミソです。
じゃあ、君たちはそういう風に僕に対応してくれたことってあるの? と聞いたことがあります。そういう君たちは、指導教員を気持ちよくさせようとしたことはあるのか、と。その答えが振るっています。「いえ、それはないです。だって、僕たちは授業料を払って先生の給料を保証しているのですから、先生はそれに応える義務があります。」こういうのです。
残念です。どこでこういう消費者的な考え方を身につけてきたのか知りませんが、それに対して、「君たちが納めている学費って、年間で50万円そこそこだけど、君たち一人にかかっている国費は800万円くらいなんだよ。それに対してはどう考えているの?」と問うても、意味はありません。「それはこの国がそうしているのであって、僕たちはその制度を使う権利がある。先生は僕たちのいうとおりに教える義務があるんじゃないですか。」という立派なご意見です。
さらに「君たちは自分のやりたいように研究させろっていうけど、どういう研究をしたらいいのか、指導も受けないで、わかるの」なんて訊いてはいけないのです。「先生、そんなこと聞いたら、その院生の人格をばかにしていると受けとめられて、それこそパワハラですよ」といわれてしまうのがオチです。
大学教員は、彼らの要求通りにサービスを提供する下僕なのでしょう。
心理学化した社会の感覚と消費者主義的な考えが先ほどの反知性主義と結びついているのが、昨今の日本の反知性主義なのではないでしょうか。自分は変わりたくないし、変わることを望んでいないし、変わることは怖い、しかも自分に意見をいうことは自分の人格を否定することに等しいから受け容れられない、だから自分の思うようにサービスを提供せよ、自分はカネを払って買っているのだ、こういうことなのではないでしょうか。これを、誰もが主張しあって、いがみあっている。こういうことになってはいないでしょうか。
その最たるものが、オンライン授業を続けると、大学の教員は怠けているといわれる、という文科省の説明ですし、その根拠であろう世間の大学に対する見方ですし、対面授業の比率が文科省が求めるものになっていない大学名を公表して、社会に晒し、批判させるぞ、という脅しです。
反知性主義ここに極まれり、かも知れません。
いい加減にして欲しい、と私が想うのは、こういうことも含めて、この社会はどんどん知性を失い、変化を怖れ、停滞してしまうのではないかと心配するからです。内田樹さんがいっているように、「知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思っている。知性は「集合的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。」(同前)からです。
そして、この社会的な知性の発動のなさが、これまで述べてきた社会の巨大な慣性力の一つのあり方なのでしょう。社会全体が好奇心を失ってしまう、ということなのかも知れません。このような社会では、様々に繰り返される改革も、すべては変わりたくない気分を合理化する論理へと組み換えられてしまいます。
たとえば、今年から始まった新しい学習指導要領では資質と能力が重視されていて、子どもたちの多様性を認めあうとともに、自分を表現し、自分を社会の中に位置づけることができ、さらに仲間とともに知的探究の旅に出ることができるような基礎的な力を身につけることが求められています。
ここでは、いわば敢えて資質とか能力という、明確には定義できない、曖昧な概念が使われています。それを受け止める側には、それが曖昧で一つの尺度では定義できないことを理解して、子どもたちそれぞれの多様なあり方を認めることと、子どもたち自身が互いに尊重しあうように指導することが求められます。いわば、水平的多様性を実現するよう求められているのです。
しかし、この表現が一旦この社会の変わりたくない気分によって受け止められてしまうと、水平的多様性は、評価という観点によって、ある尺度によって測られて、その尺度による量として表現される、縦の序列化へと組み換えられてしまいます。
これを私の同僚の中村高康さんは、学校と社会の再帰性と呼んでいます(中村高康『暴走する能力主義—教育と現代社会の病理』、ちくま新書、2018年)し、それを私は巨大な慣性力と呼んできました。また、同じことを、同僚の本田由紀さんは、「能力」による支配と資質や意欲・態度という人格的なものが評価されて、序列化されることになるという意味で「ハイパーメリトクラシー」と呼んで、批判しています(本田由紀『教育は何を評価してきたのか』、岩波新書、2020年)。
▶中村高康『暴走する能力主義—教育と現代社会の病理』ちくま新書
この社会の巨大な慣性力とは、変わりたくない、変わるのが怖い、これまでやってこられたのだから、変わる必要はない、変わるのが面倒、という「気分」によって保たれてきたのではないでしょうか。
それが社会全体の雰囲気となるとき、それは「気配」(武田砂鉄『日本の気配』、晶文社、2018年)として人々を支配することになり、人々はその気配を感じて、思考すること、模索すること、そして変わることをやめてしまうのではないでしょうか。それが、人々を変わらない状態に縛りつけてしまっているように見えます。人々皆が、足を引きずり降ろしあって、そこに自足している、いわば下方平準化の社会がいまの日本社会なのではないでしょうか。
このような社会状況のところへ、コロナ禍の拡大で、社会はさらに萎縮し、変わることに不安を抱え始めているように思われます。
しかし、その一方で、確実にオンラインでの生活は広がりを見せ、リモートワークも広がってきています。それにともなって、従来の価値観が変わり始め、新しい生活を始めている人たちが現れ始めています。
たとえば私の知人のIT系企業経営者たちは、もう東京にいる意味がなくなったと、自然環境がよく、日常生活の中に仕事を組み込んで、生活そのものを楽しめる場所へと、移動を始めています。熱海などの不動産業者は土地や建物の照会で、忙しくてたまらないといわれています。2020年の夏以降、東京の人口は社会減となったといわれます。こういう社会の変化が起こっているのです。
本来であれば、もっと早くに、コロナ禍がなくても、ICTの活用によって、学びのあり方、学校のあり方は組み換えられていなければならなかったのではないでしょうか。人々が自分の価値にもとづいて、新たな生活の価値をつくりだし、それを交換しあって、さらに新たな社会的価値をつくりだすような、そういう新たな創造の場へと学校や大学は組み換えられることが本来は求められていたのではないでしょうか。
コロナ禍は、不幸なことではありましたが、ようやくその動きをつくりだすことを促すかのような契機となるのではないでしょうか。それが、対面授業再開の強要によって押しとどめられてしまうのであれば、この社会は変わるきっかけをまたしても失ってしまい、反知性主義的な「気配」の中に沈み込んでしまうのではないかと心配でなりません。これが、私のもういい加減にしてくれ、という思いの根源なのです。
学校に求められているのは、そして私たち一人ひとりに求められているのは、対面授業に戻して、元通りの学校生活やキャンパスライフを送ることではなくて、すでに三密回避、新しい生活スタイルの確立が否応なく求められているのですから、そういう新しい生活を送ることに対応した、新たな学びのあり方や教育のあり方を模索することなのではないでしょうか。
それは、すべてをオンラインで行えということではありません。しかし、オンラインを無視することができない時代にあって、大学を含めたこれまでのような学校の構造を根本的に問い直して、新たな教育のあり方を開発することが求められているのではないでしょうか。
その時、第一に考えなければならないのは、子どもたちの健康や生命の安全と、来たるべきオンラインやリモートワークの生活のあり方です。
これまでのように、通勤や通学で時間と空間を区切って、出かけた先の学校や企業の枠組みに入り、その規律や規範によって自らを律するような生活ではなくて、むしろ日常生活の中に「学ぶこと」や「働くこと」を組み込んで、自分で自分の生活を律することが求められる時代に私たちは足を踏み入れているのです。人々それぞれがそれぞれの生活リズムを刻みながらも、互いに結びついて、信頼と寛容にもとづく結びつきをどうつくっていくのか。このことが問われているのです。
こうしたことも含めて、新しい学び方、教え方を開発することが求められているのだと思われてなりません。それはまた、子どもたちを自律的な存在へと育てること、これまでのように枠づけされることが自主性を持ち、主体性を持つことだといわないような、学び方をつくりだすことなのではないでしょうか。
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連載:子どもの未来のコンパス
#1 Withコロナがもたらす新しい自由
#2 東日本大震災から学ぶwithコロナの中の自由
#3 Withコロナで迫り出すこの社会の基盤
#4 Withコロナがあぶりだす「みんな」の「気配」
#5 Withコロナが呼び戻す学校動揺の記憶
#6 Withコロナが再び示す「社会の未来」としての学校
#7 Withコロナが暴く学校の慣性力
#8 Withコロナが問う慣性力の構造
#9 Withコロナが暴く社会の底抜け
#10 Withコロナが気づかせる「平成」の不作為
#11 Withコロナが気づかせる生活の激変と氷河期の悪夢
#12 Withコロナが予感させる不穏な未来
#13 Withコロナで気づかされる「ことば」と人の関係
#14 Withコロナで改めて気づく「ことば」と「からだ」の大切さ
#15 Withコロナが問いかける対面授業って何?
#16 Withコロナが仕向ける新しい取り組み
#17 Withコロナが問いかける人をおもんぱかる力の大切さ
#18 Withコロナで垣間見える「お客様」扱いの正体
#19 Withコロナで考えさせられる「諦め」の怖さ
#20 Withコロナ下でのオリパラ開催が突きつけるもの
#21 Withコロナで露呈した「自己」の重みの耐えがたさ
#22 Withコロナであからさまとなった学校の失敗
#23 Withコロナの下で見えてきたかすかな光・1
#24 Withコロナの下で見えてきたかすかな光・1.5
#25 Withコロナの下で見えてきたかすかな光・2
連載:学びを通してだれもが主役になる社会へ
#1 あらゆる人が社会をつくる担い手となり得る
#2 子どもたちは“将来のおとな”から“現在の主役”に変わっていく
#3 子どもの教育をめぐる動き
#4 子どもたちに行政的な措置をとるほど、社会の底に空いてしまう“穴”
#5 子どもたちを見失わないために、社会が「せねばならない」二つのこと
#6 「学び」を通して主役になる
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