新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2022.11.4
1981年生まれ。静岡県出身。常葉学園菊川高等学校卒業。2002年11月に常滑のレースでデビューを飾り、2009年12月の尼崎女子リーグで初優勝。階級は最高クラスのA1級で、これまでの通算出走回数は4267回、優勝回数34回、1着回数1047回(2022/9/15現在)。2009年に社会貢献活動「マキプロジェクト」を立ち上げ、2010年に結婚、出産を経て2011年夏に復帰。2015年にはマキプロジェクトを法人化して一般社団法人ZEROを設立し、被災地の復興支援や教育、医療、動物愛護等幅広い社会貢献活動を行なっている。プロアスリート集団による社会貢献団体「HEROs」のアンバサダーも務める。
ブログ:長嶋万記のバードアイ
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――ボートレースは「水上の格闘技」と言われるほど激しく、一方で根強い人気を誇るスポーツですが、一番の魅力はどんなところでしょうか?
私はボートレースを初めて見た時に、エンジンの音やスピード感に圧倒されました。また、ジェンダーレスで男女の差がなく、同じ舞台で戦えるところは一番の魅力だと思います。女子レースもありますが、男の人とも一緒に戦うことができるんですよ。
――それはかっこいいですね! CMもよく見ますし、注目度も高まっているのではないですか?
そうですね。少しずつ、世間に知られてきた実感はあります。ボートレースは自分自身の生き方がレースに反映されるので、女子ボートレーサーたちのエネルギーがレースを通して見ている人たちに伝わって、人気が広まっているのではないかなと思います。
――レース中、特に喜びを感じるのは、どんな瞬間ですか?
「こんなレースがしたい」「こんな優勝ができたら最高だな」と思い描いたターンやレースができた時ですね。たとえそれが6着で失敗だったとしても、自分がやろうとしていたことができたことやチャレンジできたことが喜びです。あとは、応援してくれるファンの皆さんと勝利を分かち合える瞬間は本当に嬉しいですね。
――ターンのシーンは迫力がありますよね。レース中、スピードはどのぐらい出るのですか?
時速80kmぐらいと言われています。水上ですが、「砂利道の高速道路」と言われるぐらい、水が「パンパンパン!」と跳ねます。水面が近いので、衝撃もすごく感じるんですよ。
ボートレーサーを目指すようになってからレース場のイベントで初めて体験した時は怖くて、「やめようかな、でも父にボートレースをやると言ってしまったしなぁ…」と悩みました(笑)。それぐらい、新感覚でしたね。
――その中で戦っているんですね。レーサーの総数はどのぐらいなのでしょうか。
男女合わせて1,600人ぐらいいます。その数自体は大きく変わっていないのですが、今は特に女子のレースが人気で、女子選手の枠を広げて希望者を募っています。私が選手になった頃は1,600人のうち、女性レーサーは100名ちょっとでしたが、今は約250人に増えました。
――その分、競争も激しくなっているんですね。乗るボートや対戦相手、環境要因など、勝つためのさまざまな要因があると思いますが、特に大切にしていることは何ですか?
「自分の心を絶対に置き去りにしない」ということです。ボートレーサーは結果やこれまでの成績に加えて、その時々の体重や獲得賞金額、周囲の評価など、何も隠すことができないぐらい情報が表に出ます。その中で、人と比べたり情報に惑わされず、自分の目を内側に向けるようにして、心の声を聞くことを一番大事にしています。
――想像もつかないほどの重圧があるのですね。
そうですね。レースの前は怖かったり、嫌な思いをすることもあります。ただ、「これを乗り越えたら見ている人たちが笑ってくれる」とか、「分かち合える仲間がいる」というように、人の笑顔が頑張れる一番のパワーになっています。
――長嶋選手がボートレーサーになろうと思ったきっかけは何だったのですか?
小さい頃から体を動かすことが大好きでした。小学生の時はサッカーやバレーボールなどをやりましたが、中学校に上がる時に「スラムダンク」が流行って「バスケかっこいい!」と思って始めたんです。そのチームの2学年上に憧れの先輩がいて、高校も、その先輩とバスケがしたくて同じ高校に進学しました。それで、その先輩が卒業する時に進路を聞いたら、「ボートレーサーを目指そうと思う」と。それを聞いた瞬間に自分の心が反応して、「私も!」と。その時はボートを知らなかったんですけどね(笑)。
元々スポーツ選手への憧れがあったのですが、「バスケはプロを目指せる実力ではないな」と、限界も感じていました。その点、ボートレースはゴルフやテニスのように小さい頃からの積み上げがなくても、ゼロから挑戦できる。それで、高校1年生の時に「ボートレーサーになる!」と決めました。今考えれば、追っかけでしかなかったんですけれど(笑)。その先輩が、女性ボートレーサーの大瀧明日香さんです。
――小さい頃から、自分のやりたいことに対して臆することなくチャレンジしていたんですね。
そうですね。ただ小さい頃や学生時代は経済力もないですし、一般的には親から「やると決めたら続けなさい」と言われるケースもあると思います。そこで、自分のやりたいことを優先させてくれた親には本当に感謝しています。
――ボートレーサーになるためには養成所での訓練や資格検定もあると聞きます。その段階を乗り越える大変さはなかったですか?
それまで体育会系で来ていたので、ボートもそういうノリで行けると勘違いしていました。実際にはプロペラとかエンジンを扱うので、メカニックの職人気質な部分も必要なんです。私はそれがすごく苦手だったので、「向いていないのかな」と思うこともありましたね。
ただ、目標があれば、それまでの苦労は通過点でしかないと思います。訓練でうまくいかないこともたくさんありましたが、レーサーになりたいという明確な目標があったので、その時々でベストを尽くして乗り越えました。
――目標を叶えるために、苦手なことも克服したのですね。プロペラの扱い方はどうやってマスターしたのですか?
最初はドライバーやハンマーの持ち方さえ知らなかったんですが、プロペラは自分の足になるものですし、「嫌だから」と逃げても、結局はそれが自分に跳ね返ってくるので、とことん向き合いました。そのうちに楽しくなってきて、今はプロペラを叩くと落ち着くほどになりましたよ。
――2002年11月のレースでデビューして、初優勝は2009年12月でした。初優勝までの道のりは、どのような思いで過ごしていたのですか。
デビュー戦で、描いていた場所に選手として立てたことは感慨深かったです。ただ、そこからはもがき苦しみましたね。「強くなりたい」という気持ちはデビューした時から今でもずっと持ち続けていますが、当時の自分は、あれもこれもと詰め込みすぎて、ただ頭でっかちになっていたんだと思います。だから、いざ本番で自分に自信が持てず、結果が出せない時期が長く続きました。
――その辛い時期から抜け出すターニングポイントはあったのですか?
2009年に始めた「マキプロジェクト」という社会貢献活動がターニングポイントになりました。賞金の一部でオリジナルグッズなどを作り、集まったお金で被災地支援や障害者施設へのボランティアなどを始めたんです。それは以前から心の中で「やりたい」と思っていたことだったのですが、当時はレーサーとしての階級が下の方で名前も知られていないし、「まだ活躍していないのに社会貢献活動をするぐらいなら練習をしろ」と言われると思い、なかなか行動に移せなかったんです。
ただ、心の内側の「やりたい」という気持ちの火種はずっとあったので、その声を無視せずにやることにしました。そうしたら、人生のすべての歯車が噛み合い出して、描いていた自分のレースができるようになり、初優勝もできて、A級にも上がることができました。
――すごい流れですね! 「マキプロジェクト」を始めたきっかけは何だったのですか?
選手になる時は、「ボートレーサーになる」ということしか見えていなかったんですが、3年ぐらい経った頃に、「何のために走っているんだろう?」と、外に目を向ける余裕が出てきたんです。そんな時期に障害者施設の学園祭に連れて行ってもらって、障害者の子どもたちと接したときに、「この子たちの笑顔がもっと見たい」と思いました。
思い返せば、小さい頃から志村けんさんのお笑いが小さい頃から大好きで、純粋に人の笑顔を見るのがすごく好きだったんです。だから「社会貢献がしたい」という思いよりも、「人の笑顔が見たい」という思いが原動力でしたね。
あとは、恩師の言葉が背中を押してくれました。「ビルゲイツさんとか、有名な方はお金持ちになってから慈善事業をやっているのではなく、貧乏な時からやっているんだよ」と、逆転の発想を与えてくれて。私自身、「A級になったり知名度が上がってからやるのではなく、下積み時代のB級からやることに意味がある」と感じました。ずっと燻っていた心の種火に着火したのが、その恩師の言葉でした。
それで、元阪神の赤星憲広選手が「盗塁ごとに車椅子を寄付する」という活動をしていることをニュースで見たときに「かっこいい!」と思って。自分もプロのレーサーとして何かしたいと思い、「1着を取ったら1万円」という形で始めたのがきっかけです。
――それまで抑えてきた心のつっかえが取れた感じだったんですね。プロジェクトを初めてからは、すぐに結果が出たのですか?
はい。ブログで公表したマキプロジェクトのスタートは2009年11月なのですが、その半年前から自分の中で「やってみよう」と決めて、1着を取ったら自分の成績表に赤丸をつけていたんです。それを半年間やったところ、明らかに成績が上がったんです。それで、11月に正式にプロジェクトのスタートを発表したんですが、その1カ月後のレースで初優勝できました。
――すごい相乗効果ですね。具体的に何が変わったことで結果に結びついたのでしょうか?
「一人で走っているんじゃない」というパワーが、自然と湧き上がってくるようになりました。それまではスタートのタイミングがうまくいかないこともあったんですが、見える世界が変わってきて、レースに対する責任感や、自分の限界を超えたパワーをもらえた感じで。それは不思議な力だったと思うんですけど、プロジェクトを始める前とは大きく変化しました。
――自信も持てるようになったんですね。
ええ。それまで頭でっかちになっていた情報が、全部下に降りてきた感じで、頭はリラックスして、体の力が抜けました。それで、今までやってきたことが、木の枝に実がなるようにパッパッパと全部繋がっていく感じでした。
――その翌2010年にはご結婚、そしてご出産もされました。優勝してすぐですよね?
そうです。2009年ごろに、当時お付き合いしている方と結婚を考えていたのですが、「結婚するのは優勝してからにしよう」と、自分の中で区切りをつけたいと思っていました。
ずっと優勝できていなかったので、半ば諦めていた時期に、「このレースが終わったら結婚の吉日を見てもらおう」と決めたんです。そうしたら、そのレースで優勝(笑)。そして吉日を見てもらったら、1並びの1月11日がいいということになって。12月17日に優勝して、クリスマスに顔合わせをして、1月11日に結婚して、13日にはレースに飛び立つ…という(笑)。どんどん話が進んでいきました。
――流れに導かれている感じがしますね。出産は、選手とのキャリアとの両立で迷うことはなかったですか?
それは考えましたね。結婚したい、子供が欲しいという望みは元々あった一方で、レーサーとして早く階級を上げて優勝したいけどうまくいかない、という葛藤はずっとありました。ただ、今振り返ってみると、心のままに従った時にいい流れが来て、そこに乗っかったという感じでした。
――ご出産後は生活面も含めて変化が大きかったのではないですか?
それは本当に大きかったです。明らかに変わったのが、オンとオフの使い方ですね。強くなるために競技をやっている時は、止まることが怖くて、「質よりも量」という感じで動いていました。「何かやっていないと不安」「休むのが怖い」という人はプロ選手に多いですし、独立して仕事をされている方にも多いと思います。私の場合も同じで、「動き続けても結果につながらない」という状態だったのが、出産、子育てという“強制オフ”が入ったことで、休まないといけなくなったんです。
そこで初めて休んだら、プレッシャーとかいろんなものから解き放たれて、漫画を読んだりテレビを見たり、ぼーっとしたりというオフの時間をとることができて。出産後は子育てをしながら、練習では久々にひとりになれる時間がすごく嬉しかったですね。子供を預かって見てくれる両親にも感謝しつつ、「大好きなボートに乗れる!」というワクワクした感じで取り組めるようになりました。レース場の過ごし方も同じで、オンとオフのメリハリがはっきりしました。
――競技の楽しさも改めて感じられるようになったんですね。
そうですね。いくら好きなことでもオフがないとやっている気になってしまうと、喜びを感じられないと思うんです。ただ、オンとオフの切り替えがあることで、感じられる喜びの量が変わりました。
――2015年2月には、一般社団法人ZEROを設立されて、さらに社会貢献活動の幅を広げられました。そのきっかけはなんだったんですか?
マキプロジェクトの「マキ」という名前を外したいと思っていました。
私の中では、「何かをやりたいけど自分一人じゃできない」という人がいっぱいいて、そういう方たちを巻き込みたいという思いで最初は「マキプロジェクト」としたんです。ただ、他の選手も巻き込んで活動の幅を広げたいと考えるようになり、一般社団法人ZEROを立ち上げました。
――長嶋さんはボートレーサーの他に会社の代表、お子さんを持つ母と、様々な顔をお持ちですが、改めて他のレーサーとの違いをどのように認識していますか?
レーサーだけではないマルチアスリートでありたいと思っています。「勝った、負けた」の世界でも、心を大事にして、自分らしく勝負し続けたいですね。
――「心を大事にする」が一つのキーワードですね。目標を叶えるための秘訣や、目標を持てない人に向けてアドバイスをいただけますか?
私が目標を叶えるために大切にしているのは、向上心と研究心と感謝の心の「3つの心」です。でも、一番大切なことを最近見つけました。それは、自分の「望むこと」と丁寧に向き合うことです。皆さん「目標」という大きいことを掲げがちですが、何かを望む時でさえ自分の心を置き去りにしていることがあると思います。
特に、20代、30代はいろいろな夢を描いても、いざ今の自分の状況を考えると「無理だよ」という声が聞こえてきたり、自分自身が制限をかけてしまっている人が多いように感じます。たとえば、小学生の子供に「ケーキを買っていいよ」と言うと、1つしか選ばないんですよ。本当はチョコとモンブランとショートケーキが食べたいかもしれないのに、1個だけ。金銭的な理由を考えているのかもしれませんが、頭の中で想像したり、望むことは自由ですよね。
そういう場面で制限をかけずに自分の心に許可を与えてみると、「あれをやりたい」「これもやりたい」というヒントが目の前に現れてきて、そのハートをどんどん大きくしていくと、どんな人でも必ず「望み」は出てくると思いますし、自分がやりたいことが見つかるのではないかな、と思います。だから、「やりたいことが見つからない」という場合は、まず自分が望むことや、自分の心が「やりたい」と思うことに対して許可することから始めるといいのではないかな、と思います。
――確かに、何がいい?と言われたら一つしか選ばないかもしれません。
そうそう、制限していることすら気づかないんですよね。私は「自分の感情が少しでも気分悪いな」と思った時にはそこに宝物があると思っていて、そういうきっかけを見つけるために、自分の心と向き合う癖をつけています。
もやもやしたところを無視していると、それが大きくなって、自分を動かせなくしてしまうからです。そこにちゃんと向き合って、「本当の望みはなんだろう」「最高の最高ってなんだろう?」と、いつも考えるようにしています。
ですから、望みを制限している自分に気づいて解除した時に、どんどん自由になって楽しくなって、やる気スイッチが入るのではないかな?と思います。そして、どんな望みであっても、カーナビと一緒で目的地をセットしたら、勝手に現実が動き出して、出逢うべき人や出来事に出会えるんです。望みの大きさに優劣はなく、今の自分に合った目標を掲げて、更新していった先に大きな夢に辿り着くイメージですね。やる気スイッチが入っていれば、叶った時だけでなく、過程も楽しめますよ。
――最後に、長嶋選手がこれからチャレンジしたいことや目標があれば教えてください。
やりたいことはありすぎますね(笑)。ボートレースでタイトルを獲ることや常にチャレンジすることはもちろんですが、私はボートレースを通じて知り合ったファンの方や、やる気スイッチが入った人たちとつながって、もっと自分の人生に夢中になれるような生き方を広めていきたいですね。そうしたらみんな自然と笑顔になるだろうし、心の余裕ができて、困っている人や動物を助けたり、自然の保護を考えるなど、支え合える世の中になると思います。そうやって誰もが勝者になれる、そんな世界が実現できるような活動をしていきたいですね。
――ありがとうございます。今後のご活躍にも期待しています!
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この記事を編集した人
ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。