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長年抱いていた夢を叶えることができたらそれはとても素敵なことでしょう。しかし、人生のあらゆる局面において夢を諦めなければならないこともあります。
自らをジャーナリストと名乗り、フリーランスのライターとして活躍する肥沼さんも、その一人でした。いわゆる出版社や編集プロダクション勤めの後に独立したタイプの人ではありません。それどころか、元々ライターを目指していたわけでもなかったそうです。
文学が好きで、小説家になることを夢見て、しかし叶わず、ライターとして食べていくことに夢をシフトチェンジしたのです。
この時のスイッチが入った瞬間について、肥沼さんが店主を務めるバー「月に吠える」にお邪魔して、詳しく聞いてきました!
肥沼和之(こえぬま・かずゆき)
ジャーナリスト/フリーライター
1980年東京都生まれ。小説家を目指し、フリーターをしながら執筆・投稿を続けていたが、24歳で断念。文章を書く仕事に就きたいという思いから、求人系広告代理店に転職し、転職サイトの求人原稿制作に従事する。2009年、フリーランスに転向。主に人物ルポや社会問題の記事を手掛ける。著書に『究極の愛について語るときに僕たちの語ること』(青月社)、『フリーライターとして稼いでいく方法、教えます。』(実務教育出版)。東京・新宿ゴールデン街の文壇バー「月に吠える」のオーナーでもある。 近年はフリーライター養成に特化した「月吠えライタースクール」 を開催する。
今はジャーナリストとして成功されている肥沼さんですが、昔は小説家になりたいと思っていたんですよね?いつ頃からどんなきっかけで目指すようになったんでしょうか。
高校生の頃ですね。アマチュアで書いている友人に見せてもらったのがきっかけで、自分も書いてみようと思って。やってみたら楽しくて、友人たちにも面白いと言ってもらえたので、「小説家になろう!」と決めたんです。
『フリーライターとして稼いでいく方法、教えます。』によると、20代前半まで本気で目指されていたとのことですが?
そうですね。書いては新人賞に投稿する日々を送っていました。この頃は本当に小説を書くことしかやっていませんでしたね。
とすると、10年近く「小説家になりたい」という夢を抱いていたのですね。
それが24歳の時に打ち砕かれてしまったと…。渾身の作品が一次選考すら通らなかったと著書で読みました。その時は率直にどんな気持ちでしたか?
「まさか!」と思う反面、どこかで「当然か」と現実を受け止めていました。それで諦めました。こじらせていましたし。
こじらせていたというのは?
「自分は特別なんだ」って思いこんでいたんです。「俺は周りのやつとは違う」って。でも、一方で「小説家なんてそんな簡単になれるものじゃない」ってわかっていて、今思えば、不安を隠すために斜に構えていたんですね。
それでもやっぱり落ち込みましたよね?
多少は…。でも落ち込むよりも、ここで初めて「現実と向き合わないと」と思いました。気づきを得たという感じです。とはいえ、それまで「書く」ことしかやっていないので、働くにも「何かしら文章を書く仕事に就こう」と考えつきました。
就職活動ですか?
出版社や編集プロダクションを片っ端から受けたんですけど、ダメでした。
そもそもオフィスで働くという経験がなかったので、とりあえず大手通信会社のコールセンターをやっていました。
まずは自分に足りないことを埋めていったのですね。
27歳で求人系広告代理店に就職したそうですが、その頃にはもう小説家になる夢は完全に吹っ切れていましたか?また、小説とは異なる文章を書くことに、抵抗はなかったですか?
抵抗はありました。夢も完全には諦めきれていなくて、会社員をしながらステップアップできればいいなと考えていました。とにかく、いったん文章を書く仕事をする、ということで実績を積みたかったんです。
ライターとしてのやりがいはどのように生まれていったのでしょうか。
求人広告の仕事の次に、webコンテンツの仕事を請け負っていました。いわゆるSEO対策の記事づくりで、金融系のお役立ちコンテンツとかですね。その仕事自体は楽しくなかったんですけど、自分が書いた文章でお金が貰えることが素直に嬉しかったんです。そのうち自分で企画を提案して採用されるようにもなってきて、それも喜びでしたね。
インタビューを伴うライティングもするようになっていったんですよね?
そうですね。ライターを目指すからにはノンフィクションライターの上原隆さん(※)のようになりたいと目標を見つけて、自分でブログを立ち上げて友人知人に協力してもらいノンフィクション記事を書くようになりました。
「普通の人たち」の何気ない日常を切り取るんですけれど、やっぱり人それぞれすごく人生に悩んでいることがあって、僕はそれをあえてポジティブな方向に書きました。それによって取材相手が「文章にしてもらうことで自分が幸せだったと気づいた」と言ってくれて、自分の記事が人の役に立ったことにもやりがいを見出すようになってきました。
※上原隆(うえはら・たかし)
ノンフィクションライター/コラムニスト。1949年横浜市生まれ。著書に『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)、 『雨の日と月曜日は』(新潮文庫) など。
人の何気ないストーリーを書くことは小説とも似ているような気がします。ノンフィクション分野を見出すことで、小説を書きたかったという思いは消化されたのでしょうか。
それは、完全には消化できていないと思います。ただ一方で、ノンフィクションのすごさにも気づいたんです。
ノンフィクションって、インタビューするだけじゃなくてその取材相手に密着していろんな所に行くんですけれど、そういう足を使って、実際に現場に行ったからこそ書ける描写がありました。「これって自分の想像力だけだと絶対に出てこなかったな」と気づいたんです。
小説とは違う新たな魅力に出会えたんですね。
やっていくうちにライターの方が向いていると思うようになって、これで食べていこうと決めました。
小説家としてではなく、ライターとして書くことを極めようと実践していく中で、自分の可能性を信じる気持ちはどうでしたか?「自分はできる」と信じていましたか?
「自分はできる」…そう思うようにする一方で、引込み思案な性格が邪魔して、ともすれば「本当に自分なんかができるだろうか」と不安がついてまわりました。今でも取材でインタビューする時はすごく緊張するんです。だから僕は、事前準備を周到にしたり、相手に対してこまめに気を遣ったりするようになりました。
コンプレックスがマメさを身につけることに繋がったのですね。
そういったことで不安な自分をカバーしていったんです。
読者の中にも「自分はこうだから…」とコンプレックスがやる気の妨げになっている人がいると思います。そういったことで悩む方に、経験から伝えられることはありますか?
切り替えのスイッチを自分で作ることが有効だと思っています。
作る?
イメージはプロレスラーにとってのマスクですね。何でもいいんですけど、そういうスイッチになるものを見つけること。 僕の場合はボイスレコーダーで、取材前に緊張しても電源を入れる時の「カチッ」という音を聞くことで、「やるぞ!」とスイッチを入れるんです。
スイッチは探すんじゃなくて自分で作ってしまえばいいんですね!
小説を書いて斜に構えていた頃とは違って、そうやって一つ一つの課題と向き合っていったからこそ、その道で食べていける自分に生まれ変わることができたのですね。
最後に、夢や目標をなくして、モヤモヤして立ち止まっている人にメッセージをお願いします。
僕はいろんな人に取材してきたんですけど、それこそ人が憧れるような著名人にも。それで気づいたんですが、100%な人はいないんです。誰にでも不安やコンプレックスがある。
「隣の芝生は青く見える」ものなんです。モヤモヤはあってもいいんですよ。
それからもう一つ、今は副業やパラレルキャリアが可能な時代。やりたいことは「小さくできる」と思います。いきなり転職や独立をしなくても、イベント的に小さく。本業を持ちながらまずは趣味の範囲でちょっとやってみるっていうのはありだと思います。
そうすれば、新たな発見があって、違った夢を持てるかもしれませんね。
ありがとうございました!
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この記事を編集した人
ほんのまともみ
やる気ラボライター。様々な活躍をする人の「物語」や哲学を書き起こすことにやりがいを感じながら励みます。JPIC読書アドバイザー27期。