新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2021.10.11
石垣優(いしがき・ゆう)
1982年12月24日生まれ。沖縄県石垣市出身。大阪の音楽専門学校時代に東里梨生(あいざと・りお)さんとユニットを組み、音楽活動をスタート。2004年に「やなわらばー」としてメジャーデビュー。デビュー直後から、楽曲がドラマ主題歌やCMソングに起用され、アルバム『歌ぐすい』がチャート上位にランクインするなど話題を呼んだ。結成20周年となる2020年末に東京国際フォーラムでラストライブを開催し、やなわらばーを解散。2021年より2人分の想いを背負い、ソロ活動をスタート。聴く人の心に響く、唯一無二の歌声は自然と涙を誘う。
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――やなわらばーの時代から石垣優さんの歌声は透明感があってとても素敵です。そもそも石垣さんが音楽に目覚めたきっかけは何だったんですか?
音楽への親しみは子どもの頃から自然にありました。故郷の石垣島は行事ごとが多く、何かしらいつも沖縄の民謡を耳にしていたんですよね。私自身も子どもの頃から歌が大好きでよく歌っていました。
歌うと親に褒めてもらえて、それが嬉しかったからというのもあります。私は勉強がすごく苦手な子どもだったんですが、歌だけはちゃんと歌詞を覚えて歌えたんです。それで「あんた歌は歌えるのね!」って言ってもらえて。その経験から「歌を歌えば認めてもらえるんだ」と思うようになり、歌は自分にとって特別なものになっていきました。
――それで歌手を目指されるように?
そうですね。ぼんやりとなれたらいいなとは思っていました。でも当時、本気で歌手を目指そうとすると大変で。オーディションを受けるためにはまず、飛行機に乗って石垣島を出ないといけないですから(笑)。子どもだから飛行機代なんて持っていないですし、早々に諦めて中高時代は部活に打ち込んでいましたね。
――音楽系の部活だったんですか?
いえ、ハンドボール部でした(笑)。音楽系の部活もあったんですが、譜面を読むのが苦手だったので踏み込めなくて。歌はカラオケに行くなど、趣味で楽しんでいました。
――それがどうして音楽の道を志すことに?
高校卒業後の進路を真剣に考えたとき、「私にはやっぱり歌しかない」と思ったんです。何をやれば自分は一生懸命になれるのか? これからの人生どんな目標を持てばいいのか? 悩んだ結果、歌だったら人生かけてやる気になれると、音楽の世界に飛び込むことを決めました。
――その後、大阪の音楽専門学校時代にやなわらばーを結成されたんですよね。
やなわらばーの結成はたまたまだったんです。学校へ入学して一人暮らしを始めると、途端に故郷が恋しくなってしまって…それでその故郷への思いを同郷の梨生と一緒に歌にしてみることにしたんですね。梨生はギター、私は三線を弾いて、「青い宝」という曲を作りました。
そしたら曲を聴いた学校の先生に校内のオーディションに出ることを勧められて。そのとき、一時的に結成したのがやなわらばーでした。ちなみに「やなわらばー」は、沖縄の方言で“悪がき”という意味なんですよ。
――やなわらばー結成により歌手になる夢に近づいていったのですね。
ありがたいことにそのオーディションでは優勝し、学校のサポートを受けながら梨生と2人でライブ活動をするようになりました。この頃からプロ意識というものも芽生えていきましたね。
ライブを重ねるうちに、遠くから新幹線に乗って、また泊まり込みで、私たちを見に来てくれる方が増えてきたんです。チケットを買ってくれるだけでもありがたいのに、数十分のライブのためにお金も時間も費やしてくれる人がいると知り、身が引き締まりました。
いつも万全の態勢でいよう。ステージでは絶対に泣かない。自分ひとりが感情的になっちゃダメだ。在学中の早い段階からプロ意識を高めていきました。
――専門学校卒業後すぐに上京され、メジャーデビューに至り、順調にプロの道に進まれましたよね。
ええ。でもすぐに壁にぶつかりましたが…。
プロの世界に入ると、歌がうまい人、曲を作るのがうまい人、トークがうまい人など、自分たちよりもはるかに高い実力を持った方々にたくさん出会い、レベルの差にがく然としました。もちろんがんばって追いつきたいと思ったんですよ。でも遠すぎて追えない気がしました。
――その壁はどうやって乗り越えられたんですか?
最初は自分にないものを持った人に憧れていたんですが、だんだん「自分にしかないものはなんだろう?」というのを考えるようになっていきました。上を見ればきりがないので、自分が本来持っているものを活かしたほうがいいと思ったんです。
――石垣さんが考えられる自分にしかないものとは?
「声」です。いまでは「透明感がある」とよい表現をしていただいていますが、私の声はハイトーンで細くて、若い頃は弱点のように感じていました。だからボイストレーニングで必死に声を太くしようとしていたんです。
でも、もともと太い声の人には敵わない。本来備わっている力を磨いた人を超えるには時間も余裕もなくて、だったら自分の今の声を武器にしていこうと考えました。
――自分の「原石」を見つけて磨いていくことにシフトされたんですね。
もう1つ、私だから表現できることとして「沖縄節」があると考えています。
小さい頃から自然に身につけてきた沖縄独特の声の揺れというのも、自分の個性だと思うんですよね。
やなわらばーによる沖縄節の解説動画
2013年には沖縄節を活かしたカバーアルバム『涙唄』をリリース
――他にやなわらばー時代に気づかれたことはありますか?
夢に向かって一生懸命やっても報われないことがあるということです!
――え、それはいったいどういうことで…?
一時期ライブのときに台本があったんですね。それは、私たちが幼くて未熟だから、曲の世界観を壊すようなことを言わないようにとスタッフの方から用意していただいたものでした。
ところが、その決められた言葉を一言一句間違えないように言わなくてはと注力しすぎるあまり、いつしかこなす形になってしまっていたんですよね。
自分たちの心からの言葉ではないから聞く人に全然刺さらない。しだいにお客さんが離れていきました。人が集まらないと、事務所から結果が出ていないと判断されてしまいます。仕事もぐんと減りましたね。ライブも1000人超の前でやっていたのが、300人にまで激減。
一生懸命やっていたはずなのにどうしてこうなったのか。落ち込みました。このまま世間から忘れられていくのかなって。
――がんばっても報われない、つらいですね。
石垣島に帰ろうかとも考えました。でも帰ったところで何を目標に生きていけばいいのか。やめるのは簡単だけど、後のことを考えると怖くてたまらなかった。
私はとにかく歌が大好き。どこまでも歌って生きていきたい。聴いてくれる人のために神経を研ぎ澄まして、聞こえなかった音が聞こえるようになったり、感じなかったものを感じられるようになったりするのを楽しみながら、音楽を作り上げていきたいんです。
そのためにはめげてなんていられない。がんばったことがいい結果にならなくてもやめない。いちいちへこむよりは、しっかり反省してチャレンジを続けなければならないと切り替えていきました。
――苦労するとわかっていても、やりたいことを続けるほうを選ばれたんですね。
そうですね。どうしても歌いたいんです。考えてみれば、やなわらばーとして活動した20年間で培ったのは、こうした負けずに立ち向かっていく心だと思います。
それにいまは、音楽のことで苦労することすら楽しくなってきたんですよ(笑)。以前は歌詞を書くのも苦手で、行き詰ると「やだ! 抜け出したい!」って苦しんでいたんですが、最近は「なにこの感覚! おもしろい!」となっています(笑)。自分が本当にやりたいと思うことは、苦しくても楽しいものなんですね。
――昨年はやなわらばー解散という大きな転機を迎えられましたが、ソロになることへの不安はありましたか?
とても不安でしたね。いままでやなわらばーを聴いてくださっていた方々は、梨生と2人のハーモニーが好きという人が多かったんです。だから私1人になったら聴いてもらえるのかなって…。
それでもぶつかっていくしかないので、これまでのファンの方が全員いなくなってしまったとしてもやろうと覚悟を決め、ゼロからスタートしました。
――ソロになってすでにワンマンライブを開催されていますが、反応はいかがでしたか?
コロナ禍にもかかわらず、石垣優を見に来てくれた方がたくさんいらっしゃいました!
SNSのメッセージやお手紙でも嬉しいお声をいただいたんですよ。「正直、優ちゃん1人で大丈夫かと心配だったけど、ライブを見たら大丈夫だと思いました」「自信があるように見えましたよ」など。
――それは嬉しいですね!
「1人でもやっていけるんだ!」と思えましたね。今後の活動の糧になりました。
――ホームページのプロフィールに、「やなわらばー2人分の想いを背負い、ソロ活動をスタート」とありますが、「2人分の想い」とはどんなことなんでしょうか?
やなわらばーとしてデビューした当初、梨生と目標にしていたのが、「東京国際フォーラムのホールAでワンマンライブをする」ということだったんですね。この目標はソロになったいまでも持っています。「絶対やろうね」と誓い合った当時の想いをこれからも抱き続けていきたいんです。
解散ライブはホールCでした。まずはそこに戻ることを目指して、その先にホールAの夢を叶えることができたら、1曲でもまた梨生と一緒に歌いたいですね。
――2人でやってきた気持ちをとても大事にされているんですね。ソロとしての目標も何かありますか?
やなわらばーの世界観も大切にしつつ、もっと幅を広げていきたいです。どういう音楽だったら石垣優ひとりでも納得感が出るのかを見つけたいなと。聴いてくださるみなさんの扉も開いていけたらいいですね。
やってみたいことはたくさんあるんです。やなわらばーではあまりやってこなかった恋愛の曲やいろんな楽曲に深く向き合ってみたい。また、「みんなの娘感」があったやなわらばーとは打って変わって、大人の女性のリアルな気持ちというのも表現してみたいです。
――1人になって不安だったのが、いまはポジティブにチャレンジしたい気持ちがあるんですね。
そうですね。やなわらばーではできなかったことで、私の声が活きる楽曲はきっとたくさんあると思うんです。
――最後に、どんな状況でも「歌いたい」の一点でやってこられた石垣さんですが、改めて石垣さんの「やる気」について聞かせてください。
私は、いつもやる気スイッチが入りっぱなしかもしれません(笑)。いつも「歌うためにはいまどうしたらいいのか」を考えていて。
もちろん何事もうまくいく世の中なんてないですから、いい結果が出なくて落ち込むこともあります。でも本当にやりたいなら、大変でもやり続けるしかないんです。
若いころは、うまくいかないことに愚痴をこぼしていちいち落ち込んでいました。そんなとき、母が私によくこう言っていたんです。「終わったことを言って、あんた過去が変わると思っているの? いま何をやるかでしょ。早く動きなさい!」。厳しい言葉なんですけど、本当にそのとおりだなって。
うまくいかないなかで、どれだけ諦めないか。どん底に陥っても、そのときの気持ちをどれだけ次に活かそうと思えるか。悔しい気持ちだって「やる気」に繋がっていくんですよ。
私はやなわらばーとして活動した20年間でずっとそうしたやる気の起こし方をくり返してきて、もはやいまは大変なことも楽しいです。壁にぶつかったら、「次はどんな自分に生まれ変わろうか」ってワクワクしているんですよ(笑)。
――ありがとうございました。今後のご活躍も楽しみにしています!
記事公開を記念して、抽選で1名様に石垣優さんのサイン色紙をプレゼントいたします。
サイン色紙には、やなわらばー20年の想いを込めて書かれたやる気メッセージも入っています。ふるってご応募ください!
応募は締め切りました。ありがとうございました。
11月28日(日)になかのZEROホールで開催される「琉球舞団 昇龍祭太鼓 10周年記念公演 SHORYU A NEW TRADITION」に石垣優さんが出演されます。
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この記事を編集した人
ほんのまともみ
やる気ラボライター。様々な活躍をする人の「物語」や哲学を書き起こすことにやりがいを感じながら励みます。JPIC読書アドバイザー27期。