新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2022.06.13
海老名 保(えびな・たもつ)
株式会社正義の味方代表。1969年生まれ。秋田県出身。『仮面ライダー』『タイガーマスク』などのヒーローものにどっぷり浸かった少年時代を過ごす。高校卒業後上京。プロレスラーを目指し、前田日明率いる「新生UWF」に入門するが、練習中の事故により挫折。その後、ジムインストラクターをしながらアクション俳優を志すが事故の後遺症でまた断念、故郷に帰りフィットネスジムを経営。2005年、秋田発ヒーロー「超神ネイガー」を企画・制作。世界観やクオリティが評判を呼び、ネイガーは秋田で大人気に。
ホームページ:株式会社正義の味方
――海老名さんは子どもの頃、ヒーローものに熱中していたそうですが、どんな子どもだったんですか?
テレビの影響を受けやすい子どもでした(笑)。なんでも真に受けてのめりこんじゃう(笑)。
まわりの友だちもそうだったんですよ。当時、秋田では民放が2局しか放送されていなかったものですから、みんなだいたい同じものを見ていて、かっこいいものやおもしろそうなものはよく真似て遊んでいました。
なかでも私が夢中になったのが『仮面ライダー』。迫力あるアクションに加えて、仮面ライダーには「アート」を感じてより惹かれたんです。
――「アート」というのは?
仮面ライダーはやっぱり「仮面」がかっこよかったんです。形とか色とか、子ども心をくすぐるように作られていた。いわば造形の部分に惹かれたんですね。
影響を受けるあまり自分でも仮面を作っていましたね(笑)。ちょっとマニアックな話をすると、仮面ライダーの仮面は、初期は上からかぶるタイプで大きかったんですが、後のシリーズでは人の顔の輪郭に近くなります。デザインもモチーフのバッタにより近づくように段が入り、前と後ろで分かれるような造りになるなど変化が。そういう細かな部分に気づいてボール紙で再現することに熱中していました(笑)。
――楽しそうですね(笑)。
楽しかったですね(笑)。その作った仮面を用いてよくショーをやっていました(笑)。
それからもうひとつ、ヒーローに夢中になった理由があって。それは、「一生懸命やっている大人がいる」と知ったことです。
当時、テレビで見るヒーローはフィクションで、物語や衣装を作る人、アクションを演じるスタントマンなどがいて構成されていると知る機会が多々ありました。制作の裏側をテレビなどで見ることがあって。でも、夢が壊れるとかはまったくなく。むしろ「かっこいい!」と思いました。
子ども向け雑誌で仮面ライダーの写真を見ていて、仮面の中の人の目が見えちゃっていたときも、「子どものために真剣に演じている大人がいるんだ」と思ったんです。
――頑張る大人を「かっこいい」と思われたんですね。
そうですね。小学校高学年になると、「タイガーマスク」の影響でプロレスの世界に夢中になったのですが、プロレスもまた、四角いリングのなかで大人たちが真剣にぶつかる姿を見せるもので、すごくかっこいいと思いました。
しかもタイガーマスクは、テレビアニメから現実世界に飛び出してきた人物(※)。めちゃくちゃ興奮しましたね。
※タイガーマスク
テレビアニメ『タイガーマスク』に登場する覆面プロレスラー。続編の『タイガーマスク二世』放送時にタイアップ企画があり、実際にプロレス界に誕生した。現在もその名が受け継がれている。
――二次元から出てくるってすごいことですよね。
それで、「自分もやるぞ!」と(笑)。タイガーマスクが実際に活躍する姿に心打たれて、そのまま将来の夢が決まりました(笑)。
憧れを抱き続けて、高校卒業後はプロレスラーになるために上京。ありがたいことにプロレス団体「第二次UWF」の新人テストに合格することができ、プロレスラーの道をスタートさせることができました。
19歳のとき、プロレスラー・前田日明(まえだ・あきら)さん率いる「第二次UWF」の第二回新人テストに合格し、入門する。(写真:本人提供)
――プロレスは痛みやケガを伴う厳しい世界ですよね。練習するなかで、めげそうになることはなかったですか?
たしかに練習はすごく厳しかったです。でもいくつか心の支えになったものがあって。ひとつは、プロレスが好きで好きでしょうがなくてテストを受けてみたら認められたという自負。またひとつは、共に励む仲間の存在。自分なりに覚悟を決めて挑んだことですし、めげそうになっても頑張れるよりどころを見出してやっていました。
それにここでも、「自分のために頑張ってくれる大人」の存在がありました。練習を指導してくれた先輩方のことです。先輩方は本当に厳しかったですが、その裏には私を強くしてやりたいという愛情がありました。練習の後も冗談を言って和ましてくれて、ありがたかったですね。
――日々懸命に練習されていたところ、後頭部を強打し「脳挫傷」になったそうですね。そのせいでプロレスラーの夢が断たれてしまったとか。
そうですね。結果的にこの事故が原因でプロレスラーになる夢は消えました。
倒れたときのことはいまでも覚えています。突然ひきつけを起こし体のコントロールがきかなくなって、病院に運ばれました。MRIの検査を受け、診察室で脳の画像を見ると、衝撃。片方が大きく膨張していて、もう片方は圧迫されて萎縮していました。
それでも意識が保てている自分に驚きながら医師の説明を聞いていたんですが、内心「もうダメだな。よくて一生寝たきりだろう」と思っていました。ところが医師に「もう二度とプロレスはできないけど、普通の生活はできますよ」と言われて、またびっくり。
最悪のケースを想定していたのに、実際にはプロレスができなくなっただけでした。
――夢については「ひとつの可能性が断たれただけ」と考えたんですね。
夢を諦めなければいけないことはたしかにショックだったんですが、命が助かった喜びのほうが大きかったんです。絶望のなかにも希望を見出していました。
――その後はどうされたんですか?
秋田に帰郷して就職活動を始めました。なんとか地元企業に入社することができ、サラリーマンになったんですよ。
――サラリーマンになるとは思ってもみなかったですよね。
そうですね(笑)。でも自分なりにメリハリをつけて仕事もプライベートも充実させていました。交代制の仕事だったんですが、合間の時間を上手く使って、リハビリがてらトレーニングをしたり、ヒーローのフィギュアづくりをしたりしていたんですよね(笑)。そしたらそのうち新しい夢がでてきて。
――どんな夢ですか?
「プロレスヒーローじゃなくて変身ヒーローを目指せるかも」って思うようになったんですよ。というのは、2年半トレーニングを継続した結果、プロレスの修行をしていたとき以上に筋力や体力がついたからなんですよね。「あのときよりも力あるじゃん!」って思って(笑)。
そう気づいたら今度は、「プロレス以外ならなんでもできるかもしれないぞ」という思考になり、アクションの世界に入ることを決めました。
――新たな可能性を見出したんですね!
ヒーロー番組で活躍するアクション俳優を目指して、再び上京しました。それからはフィットネスクラブのインストラクターとして働きながら、東映などのオーディションを受ける日々を送ります。
しばらくするとチャンスがやってきました。アクションの練習をいっしょにやっていた仲間の縁で、「『ウルトラマン』の主役スタントをやってみないか」というお話をいただいたんです。
――すごい。大きなチャンスですね。
ええ。すごくやりたいと思いました。ただこの頃、脳挫傷の後遺症が出るようになっていて…。
――どんな症状があったんですか?
記憶が飛ぶことがありました。朝起きたとき、30秒くらい自分が誰だかわからなくて。また、寝ているときにひきつけを起こすことも。自分では気づいていなくて、他の人から「海老名君、昨日体が動いていたよ」とよく聞かされました。
結局、このありさまではまわりに迷惑をかけると思って、スタントの話はお断りしました。すごく迷ったんですけどね。先方に何度も声をかけてもらったことを誇りにしてまた夢を諦めました。
――その後はまた秋田に?
ええ、帰りました。東京にいた間にフィットネスインストラクターとしての力もつけていたので、地元でジム経営を始めました。
――ヒーローを好きな気持ちは封印して?
いえいえ、またサラリーマン時代のように時間を見つけてどっぷり浸かっていましたよ。ヒーローの仮面づくりに没頭して(笑)。フィギュア雑誌の特集で、仮面ライダーの仮面制作について見たんですよね。そこで樹脂粘土を使えば仮面が作れることを知り、東急ハンズで材料を買って作り始めました。
――また夢中になれるものを見つけたんですね!
そうなんです。そしてまたチャンスがやってきたんです。
自分で仮面を作るとやっぱり人に見てもらいたくなって、知人の子どもたちの前でかぶって見せるなどしていたんですね。子どもたちは大喜びでした。そうやって何かと子どもが集まる場で披露していたら、噂が広がって、地元のホテルから「ショーをやりませんか」とお誘いをいただいたんです。
――ついにヒーローになれるときが来ましたね。
このとき「ネイガー」が誕生しました。自分でショーをやるのに既存のキャラクターを使うわけにはいきませんから、オリジナルヒーローを生み出したんです。現在とちがって、当時は青や緑をベースにした色合いでした。
初期のネイガー。(写真:本人提供)
――初めてのヒーローショー、反応はいかがでしたか?
大失敗でした(笑)。動いてもしゃべってもお客さんはシーン。雨も降って散々でした。
――またもや上手くいかない…!
このときはさすがにへこみましたね。でも、ある一言がきっかけでまた立ち上がれたんですよ。
ホテルでのショーが終わった後、日常に戻ってジムの仕事をしていたんですが、会員さんのなかに子どもを連れてショーを見に来てくださった方がいて、こう言われました。
「うちの子、ショーを見て以来ずーっとネイガーの真似ばっかりしているんですよ」。
びっくりしました。全然盛り上がらなかったのにどこに夢中になる要素があったのか。不思議だったんですが、せっかくネイガーを好きになってくれた子がいるならと思って、本格的に作り上げることを決心しました。
――「ネイガー」を作り込むにあたって、まずどんな行動を起こされたんですか?
幼なじみの高橋大さんを頼りました。彼とは子どもの頃よく遊んでいて、それこそヒーロー遊びに夢中になった仲でした。子ども時代の思い出を振り返ったとき、「大ちゃんは発想力もセンスも抜群だった」と思って、一緒にヒーローを作ろうと誘ったんです。それで世界観などを改めて練って、現在のネイガーができあがりました。
メインカラーを秋田名物「なまはげ」を思わせる赤に変更。また武器やセリフに方言をふんだんに取り入れ、地元民が親しみやすいように工夫した。(写真:本人提供)
――まるで大人のヒーロー遊びですね。
誰かと一緒にやるって大事だと思うんですよね。すべてを自分ひとりでやるというのはやはり難しく、自分にない力は人を頼るといいんですよ。ヒーローだって、ピンチのときは仲間を頼って協力していますよね。
――紆余曲折を経てきた海老名さん自身の経験も、ネイガーづくりには活かされましたか?
そうですね。子どもの頃に仮面づくりで、「どうやったらテレビみたいにかっこよくできるんだろう?」と工夫の仕方を考えたことや、プロレスラーやアクション俳優を目指していたときに、「どうやったら強い体を作れるんだろう?」と理想に近づく手段を試行錯誤した経験が、ここで活きたと思います。
ヒーローに憧れた幼少時代から数々のことに挑戦してきて、自分には「徹底的に追求する力」が身についていたんですよ。
――具体的にネイガーづくりはどんなことにこだわったんですか?
秋田ならではの言葉の用い方にこだわりました。ローカル色を強くするためです。でも、そのまま取り入れるのではダメなんですよね。
例えばネイガーの武器で秋田の県魚「ハタハタ」をモチーフにした銃があるんですが、名前は「ハタハタ銃」ではありません。「ブリコガン」なんです。ブリコとはハタハタの卵のことです。
なんでこの名前にしたかというと、響きがかっこいいからです。想像してみてほしいんですが、ネイガーがポーズを決めて銃を見せるとき、「ハタハタ銃!」と言うより、「ブリコガン!」って言ったほうがかっこいいでしょ?(笑)。
ローカルにカスタマイズするだけじゃなく、ヒーローなりのかっこよさを徹底して追求しました。小さなことでも、選択ひとつでイメージって変わりますよね。
――些細なことも妥協しない姿勢は、最初のお話にあった「頑張る大人」の姿そのものですね。
そうそう、子どもたちのために「頑張る大人」の側になってから、気づいたことがあるんです。ヒーローが子どもたちに見せる「夢」は、ドリームじゃなくてビジョンだなと。
ネイガーショーの様子。(写真:本人提供)
――どういうことですか?
「ドリーム」のほうの夢だと、ただ空を飛びたいとか、つかみどころのない空想で終わってしまうと思うんです。もちろん最初に抱く夢はぼんやりしたものであることが多いでしょう。私だって子どもの頃はただ「ヒーローになりたい!」とばくぜんと夢見ていただけでしたから。
でもそこから先、本当に叶えたかったら、「ビジョン」を意識することが必要になります。現実的に達成する手立てを追い求めていくことが大事。私自身もただ体を強くしただけではヒーローになれないので、プロレスやアクションの世界など活躍する場を求めていきました。
私の場合そこで夢は叶いませんでしたが、ヒーローへの想いを仮面づくりに注ぎ込んだことで、オリジナルヒーローを作るという活路が開きました。
――どんな形でも挑戦を続けることが大事ですね。
世の中上手くいかないことばかりです。でもどんな状況でも打開点はあると思います。
できそうなことが見つかったら次に必要なのは「勇気」。勇気をもって行動してみないとですよね。それで失敗したってまた手立てを探していけばいい。行動を繰り返しているといつか笑顔に包まれて夢が叶うときが来ると、私は自分自身の経験から感じています。
――これからもヒーローを通して、どんな状況からも立ち上がる生き方を発信してください!ありがとうございました。
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この記事を編集した人
ほんのまともみ
やる気ラボライター。様々な活躍をする人の「物語」や哲学を書き起こすことにやりがいを感じながら励みます。JPIC読書アドバイザー27期。