新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2023.05.18
1961年生まれ、東京都八王子市出身。カンティーナ・ジーオセット代表。1985年に中央大学を卒業後、シマクリエイティブハウス、東急エージェンシーという2つの広告会社で計26年間勤務。49歳の時に脱サラして東京から新潟に移り住み、「カーブドッチワイナリー」でぶどう栽培とワイン醸造を一から学んだのち、2010年に株式会社セトワイナリーを設立し、新潟市の西部30kmに位置する角田浜で創業。2013年5月に実酒製造免許を取得した。日本ワイナリーアワードの「コニサーズワイナリー(玄人が選んだ目利き)」を2020年から3年連続受賞。
公式サイト:カンティーナ・ジーオセット
――カンティーナ・ジーオセットでは、年間1万本のワインを造っておられるそうですね。どのようなワインを造っているのですか?
ブドウの栽培品種は6種類です。最初は「ツヴァイゲルト」、「ネッビオーロ」、「バルベーラ」、「ランブルスコ」、「カベルネ・ソーヴィニョン」というヨーロッパ系の赤ワイン5品種を育てていたのですが、近年、「マスカット・ベーリーA」をやり始めたので6品種になりました。マスカット・ベーリーAは山梨県がたくさん作っている品種で山梨県産と思われているかもしれませんが、雨が多くて湿度の高い日本に向く品種で、ルーツを辿ると新潟で作られたものなんです。ヨーロッパ系のブドウを育てることで「日本のワインをよりよくしていこう」という思いがある一方で、新潟県が作ったブドウを大切にしたいなと思ってやり始めました。
――品種のルーツを大切にされているんですね。ヨーロッパのブドウを栽培しているのはなぜですか?
海外へのコンプレックスもあると思います。僕はサッカーが大好きなんですが、日本は「高さもあってフィジカルも強いヨーロッパに勝てない」というコンプレックスがあります。でも、日本には「丁寧にパスを繋ぐ」良さがある。なでしこジャパンが2011年のドイツワールドカップで優勝した時のようなイメージで、真っ向勝負では勝てないかもしれないけど、違うアプローチをすれば海外に勝てるかもしれない、ということはブドウ栽培にも通じると思っています。イタリアのワインが大好きなので、イタリアのブドウに力を入れています。
――イタリアの味を日本でも再現する、というイメージでしょうか。
いえ、「イタリアのワイン」を造れば完成というわけではなく、新潟の食事、新潟の風土を表現するワインを造りたいと思って続けています。たとえば、日本では全国的に白ワインなら「シャルドネ」、赤ワインなら「メルロー」という種類のブドウを育てているのですが、僕はそれが正解だと思わないんです。土地によって、ブドウも向き不向きがあるじゃないですか。そう考えると、新潟で栽培しやすいブドウ、食文化に合っているワインがあると思うんです。
その中でイタリアのブドウを使っているのは、国の文化やマインドが好きだということもあるんですが、イタリアは500とも600とも言われるほどブドウの品種の宝庫なので、味わいのヴァリエーションが多く、和洋折衷の日本人の食卓に合う味わいが早く見つかるのではないかと思い、育てています。
――世界の中でも品種が特に多い国なんですね。 文化的にはイタリアのどんなところがお好きですか?
フランスは国際的な評価で言えば「自国の文化をより高めていくブランディングが上手」な国です。ナポレオンの時代に万国博覧会で格付けをした歴史が今も残っているように、お上がナンバーワンを決める文化があります。一方、イタリアは地方性が強くて、「隣町よりも自分たちの町が一番」という考え方が強いです。
20の州があって、その数だけ地方料理とワインがあるという考え方で、「全国統一のイタリア料理やイタリアワインはない」と言われています。そういう食文化、ワインから得た感動を日本でも伝えたいと思いましたし、憧れているのは土地の文化と地域の伝統を伝承した「お母さんの味」です。
――新潟の土や気候、食事にも合うワインがあれば、食文化がさらに豊かになりそうです。でも、ベストな組み合わせを見つけるのは大変な作業ですよね。
そうですね。日本には47の都道府県がありますが、たとえば北海道の中でも、余市、函館、十勝、帯広というようにブドウの産地が分散していて、それぞれの地域で食文化も違えば、自然環境要因に適合した品種も違いますから。
その中で適合するブドウを育てて、その地域でしか味わえない美味しいワインが日常にあれば、もっと世界は楽しくなる、ということを伝えたいと思っています。
そのためには、まず食事に対する造詣の深さや執着心がないといけないと思うし、ワインが好きかどうかということよりも、その土地への愛着とか、土地の食文化をどうしたら生かせるか、という視点でワインを造りたいと考えています。
――食事から日常が楽しくなる、というのはいいですね! そもそも、なぜ新潟という土地でワイナリーを開こうと思われたのですか?
新潟との出会いは、サッカーがきっかけです。98年のフランスワールドカップで日本代表のメンバーの一人だった山口素弘選手のファンだったのですが、彼が横浜フリューゲルスというチームでブラジル代表のサンパイオという選手と一緒にボランチ(中盤)のポジションでプレーしていたんです。テレビの中継だと、ボランチというポジションがどれだけ重要な役割をしているかが伝わらなくて。その時に、現場に行かなければわからないサッカーの面白さにハマりました。
その後、2002年に彼がJ1の名古屋グランパスで戦力外通告を受けて、翌年、J2のアルビレックス新潟に移籍したんです。山口選手は主軸として活躍して、新潟はJ2からJ1に昇格しました。それで、2003年の夏から新潟に通い始めたのがきっかけで、新潟の魅力を知るようになっていきました。
――瀬戸さんはもともと、スポーツがお好きだったんですか?
「王・長嶋世代」なので野球が好きだったんですが、東京に住んでいながら、あまのじゃくな父の影響で阪神タイガースのファンになりました。ただ、小学校から中学に上がる時に、親の教育方針でサッカーが盛んな暁星中学に行くことになったんです。硬式野球部がなく、友人の誘いでバレーボール部に入ったのですが馴染めず、帰宅部でした。それで、野球はもっぱら観戦のみでした。
「手を使えないスポーツなんてつまらない」と思っていたんですが、当時は1978年アルゼンチンワールドカップをリアルタイムで体験し、マリオ・ケンペスという長髪のフォワードを見て「サッカーもかっこいいな」と思いましたが、のめり込むことはなかったです。高校卒業後に、メジャーリーグベースボールを見に行きたくて、お金を貯めて大学2年生の時にアメリカに行きました。友人が東海岸に留学していたので、遊びに行ったんです。
ーー小さい頃から野球を見ていた影響が大きかったんですね。海外まで観に行く熱量がすごいです。
高校生の頃に、ヤンキースの試合をテレビで放送していたのをよく見ていました。守備や内野手に注目してみていましたね。当時はアメリカン・フットボールなど、アメリカのスポーツにも夢中になっていましたね。ただ、その時にMLBを観戦したのが最後で、大学時代にスポーツ熱は終わってしまったんです。
――そんなに熱かったのに、なぜ終わってしまったんですか?
社会人になって、アメリカ的な文化からヨーロッパ文化に興味を持つようになったんです。アメリカにいた友達が、欧州的な価値観を教えてくれて、大量生産・大量消費の文化よりも、伝統や継承を大事にする文化の方が、自分の中で腑に落ちたのもありますね。それで、アメリカでお世話になった友人の勧めでイギリスに行ったら、「ものを大切にする」という価値観や、伝統性を大切にする文化に魅了されたんです。
――そういう経験や価値観に触れたことは、就職時の仕事選びにも影響しましたか?
はい。大学卒業後は広告代理店に入ったのですが、一番大きかったのは、アメリカでの経験です。ニューヨークから飛行機を乗り継いでボストンに降り立った時に、抱いていたイメージはジャズが流れていたり、当時憧れていたオンワードの「J・プレス」という伝統的なアパレルブランドのお店が並んでいるという感じだったのですが、実際は車のラジオから大音量でエアロスミスが流れていて、ロックとTシャツとスニーカー、という感じで新しいものをどんどん取り入れている印象で。行った途端にイメージが崩されて、疎外感に襲われたんです。
その時に、「日本で売っている海外ブランドの服は、意図をもってイメージが作られている」ということを知ったんです。それがきっかけで大学2年生の時にマーケティングに興味を持ったことが、広告代理店を選んだ決め手でした。
――アメリカで感じた疎外感の正体を突き止めようと思われたんですね。そこからワイン造りを始めるまで、ずっと広告業界で勤めてこられたんですか?
はい。当時は今ほど個人の興味がいろんなものに分散している時代ではなく、「これが流行っている」というと、100人がそういうことに熱中するという時代でした。広告会社というのはある意味、世の中のトレンドに対して敏感なところですから、変化に富んだ26年間でした。
――ワインを嗜むようになったのは、いつ頃からだったんですか?
最初の広告会社に入社して2年目に企画営業になり、食の仕事のプロジェクトで1年間、北海道に住んだことがあるんです。北海道はワインを飲む文化がありますし、当時はバブルだったこともあって、ワインが身近な存在だったんですよ。その頃に、元電通のプランナーの勉強会に参加するようになり、会の後に、毎回みんなでワインを飲むようになったことがひとつの転機でした。
――当時は20代中頃ですよね。ワインのどんなところに魅せられたのですか?
最初は興味がなくて、「ワインって大人な飲み物」という漠然とした印象だったんですよね。でも、勉強会の後にレストランに行くうちに、出てくるワインリストを読むことが大人の嗜みだと感じるようになりました。
広告の仕事で飲食業界の方と話すことも多かったのですが、「お金を出し合ってロマネ・コンティという高級ワインをみんなで開けて味見した」とか、そういうワイン好きの人たちの話を聞いていくうちに刺激を受けて、自然とワインが身近になってきた感覚でしたね。
――ワインの世界は豆知識も多く、知れば知るほど奥が深いと言われますよね。自分でも飲むようになったんですか?
はい。自分でお金を稼げるようになってからは、休みを利用して海外旅行にも行くようになって、特に、イギリスは自分の価値観にすごく合うなと感じたんです。そこで、アメリカの「ビールと野球観戦」から、イギリスの「ワインとサッカー観戦」に、世界観の違いが思い切り逆転した感じでした。
ーーサッカー観戦の魅力に気づいたのも、社会人になってからだったのですね。
そうです。2社目の広告代理店に移ったあとで、93年にJリーグがスタートして、当時全国的にサッカーが大人気で。僕も友人にもらったチケットで、国立競技場で行われた鹿島アントラーズと横浜フリューゲルスの天皇杯決勝戦を初めて見に行ったんです。その時に、横浜フリューゲルスのテクニカルで陽気なサッカーに惹きつけられました。
当時、仕事先の会社がJリーグのスポンサーでもあったので、仕事先の担当者に初めてみた試合がその天皇杯決勝だったことを伝えたら、「フリューゲルスの応援を一緒にしませんか?」と誘われました。それが決定打になって、それからは毎回、ホームの試合を見に行くようになりました。全試合を見ているとフリューゲルスが負けることも多かったんですが、それによって負けることへの免疫ができて、結果ではないプロセスの面白さみたいなものにすごく気づかせてもらいましたね。
――新潟移住のきっかけになった山口選手が所属していたチームですね。好きな選手を追いかけるのも観戦の醍醐味ですよね。海外に試合を観にいくこともあったのですか?
はい。イギリス文化が好きになりました。僕は雰囲気から入るので、ロンドンに行ったらサッカーを見なきゃな、と(笑)。パブでワールドカップの試合を見ることもありました。当時はサラリーも悪くなかったですし、イギリス圏の香港やマレーシアとかシンガポールにもよく行っていて、一年に2回ぐらいは海外に行っていましたね。
当時はイタリアのセリエAが世界最高峰のリーグと言われていて、90年代後半は日本からも実力のある選手がイタリアを目指した時代でした。ちょうどイタリアワインに興味を持っていたことと重なって、三浦知良さんが行ったジェノア(リグーリア州)や中田英寿さんが行ったペルージャ(ウンブリア州)、名波浩さんが行ったヴェネツィア(ヴェネト州)にはどんなワインがあるのか?というように、サッカーとワインを同時に楽しめるようになりました。
ただ、その後、体調を崩した時期があって、国内旅行にシフトして山口選手を追いかけて全国を転々とするようになり、新潟にも行くようになりました。
――そこでワインとサッカーと新潟がつながるんですね! ご自身でワインを造ろうと思われたのはどんなことがきっかけだったのでしょうか?
新潟市の中心部から海沿いに20kmほど西へ行った丘陵地にあるところにある「カーブドッチ」というワイナリーがあるのですが、醸造や販売、ワインに合わせた料理の提供などもしてくれるんです。そこで、ドイツ、フランスなどの品種ごとにワインが造られていたんです。
僕は広告会社の人間だったので、「作った製品をどれだけの人たちに届けるか」というマーケティングのお手伝いをやっていたのですが、カープドッチには畑と醸造所があって、レストランもある。ものを移動させることなく、1万人もの会員の方がワインを買いに訪れるというのが新鮮で、翌年から収穫のお手伝いをさせていただき、ハマってしまったんです。
――それでワイン造りを考え始められたのですね。でも、長く勤めた会社を辞める時の葛藤はなかったですか?
年齢的にも40代後半に差し掛かって、会社も年功序列から成果主義に変わっていました。また、上の世代の人たちが早期退職制度で目標にしていた先輩も辞めてしまって、仕事でも現場からマネジメントに変わったタイミングだったんです。
僕は仕事の現場が好きだったので、マネジメントをあと十数年やるのは違うな、と思いましたし、ワイン造りに興味を持った時期がその時期と重なったので、迷わず新潟に移住することを決めました。
――2011年、50歳の時に新潟県角田浜でカンティーナ・ジーオセットを起業されました。ワイン造りのノウハウや資金面など、大変なことも多かったんじゃないですか?
サラリーマンから農業への参入で心配だったのは、体力面です。醸造は技術、農業は体力なので、椅子に座ってパソコンに向かい合う生活から、まったく違う世界に入るわけじゃないですか。だから、40代後半という年齢もあってできるかどうかという不安がありました。
――その逆境をどのように乗り越えられたんですか?
研修をした1年間で、「自分でも農業をできるんだ」と実感できたことが大きかったです。その成功体験がなかったら、起業しなかったと思います。
――そこからの12年間、ワイン造りでご自分の性格的な強みはどのようなポイントで生かされてきたと思いますか?
物事や、常識を疑うことが多い性格は生きていると思います。農業は慣例的にやっていることが多く、「そこは違うんじゃないかな」と疑って、違う方法を模索することもありますから。それは、違う仕事を二十数年間やってきた上での経験が生きている部分だと思います。
――日本ワイナリーアワードで2020年から3年連続、「コニサーズワイナリー(玄人が選んだ目利き)」でセトワイナリーが受賞されたそうで、おめでとうございます! この賞で評価されたのは、どのようなポイントだったのでしょうか。
日本ワイナリーアワードというのは、一つひとつのワインの評価ではなく、ワイナリーがやっていることに対する評価なんです。星が「3」から「5」まである中で、その枠組みではなく、個性を評価していただける「コニサーズ」という賞をいただきました。
50歳を過ぎたおじさんがはじめたワイナリーですし、「フランスワインがベースにない」とか、「白ワインとスパークリングワインは造らない」というような他のワイナリーとの違いもあります。だからこそ、バランス重視で星をもらうよりは、個性的と言われた方が励みになりましたね。
――日本が誇る個性派ワイナリーとして認められたということですね。今後、チャレンジしたいことはありますか?
日本でも今はワイナリーが増えてきているのですが、予備軍も入れて500弱で、他の国に比べて数ではまだまだ足りないんですよね。産業としては千、2千、1万と増えていかないと、国際競争力は上がらないと思っています。
その中で、日本ワインの普遍的なものを追求しながらも、「地域のアイデンティティを出していきたい」という思いがあります。これからも赤ワインを突き詰めたいと思っていて、造るワインの種類をもう少し取捨選択していきたいという思いがあります。
――最後に、瀬戸さんのように、自分の信念を持って何かに打ち込むためのアドバイスをいただけますか?
僕らの時代は、上場企業に入るためにいい大学やゼミに入る、というレールがあって、みんなが同じような行動をとっていました。
でも今の時代は、人の数や個性の数だけ、生きていくための職業にもいろいろな選択肢や多様性が認められた時代です。だからこそ、一つの価値観に向かっていくのではなくて、自分が向いているもの、やりたいものにどんどんチャレンジしてほしいと思います。
将来、昭和レトロみたいに一つの時代を懐かしむことはなくなるかもしれませんが、選択肢が増えた分、豊かな未来になると思いますよ。
――本日はありがとうございました。日本の食文化を豊かにするセトワイナリーのワインにこれからも注目しています!
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この記事を編集した人
ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。