新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
生活・趣味
2023.02.16
第12回記事「「農的な生活」が生む幸福論・2—田舎をめざそうプロジェクト(2)」はこちら
この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
私たちに、重荷を背負った苦しい胸の内を明かし、「放っておいてくれ」といっていた顔役たちは、その後、どうなったのでしょうか。あまりにも重苦しい話に、その話を聞いていた私自身が飲み込まれそうになり、こう伝えたのです。
「そこまでおっしゃるのなら、もう、帰ります。市長からいわれてやってきましたが、1年間掛けて、皆さんのお話をうかがううちに、もう無理だと思い始めています。皆さんが、このふるさとは終わりにするとおっしゃるのなら、そうするのがよいと思います。市長には、もう無理だと伝えておきます。」
すると、ほとんどの地区で、こういわれるのです。
「先生、何とかしてくれるのか。市長からいわれてきたというし、東大から来たんだから、何かできるのではないか。やってくれないか。」
そこで、もう、仕方がないなあ、と思いつつ、一芝居打つことになります。喧嘩を売るのです。
「何いってるんですか! 皆さんがもうだめだ、オレたちの代で終わりにするんだといってるんじゃないのですか。なんで、自分のふるさとでもないところのまちおこしを、私がしなければならないのですか。自分のふるさとでしょ。よくもまあ、他人に何とかしてくれなんていえますね。そんなだから、この村がダメになってしまったのではないですか。恥ずかしいと思いなさい! こんなところとはつきあいたくありません。もう帰ります。」
これに対して、顔役たちも「そんなこといっても、仕方ないだろう」とか、反論しますが、どうも元気がありません。そして、しばらくして、市役所から連絡があったのです。「先生に叱られて、腹が立ったけど、いわれてみれば、その通りだ、といっています。自分たちで何とかしたいけど、どうしたらいいのかわからないから、手伝ってほしいといっています。いかがでしょうか。」
それで、再び現地を訪れると、「このままじゃ腹の虫が治まらん!」と怒っているのです。顔役たちが。
「誰の腹の虫が誰に対して治まらないのですか」と聞くと、「自分の腹の虫が、自分に対して、だ。」「このままでは終われない。そう思った。なんとか、最後に一花咲かせて、この村を元気にしたい。」
こういうのです。それで始まったのが、この「若者よ田舎をめざそうプロジェクト」でした。
手伝うといったものの、私自身、どのような手立てがあり得るのか、想像もつきませんでした。すでに、農林業では食べられないことは地元の人たちが証明してしまっています。しかも、過去に幾度となく試みられた就農事業も、ことごとく失敗しています。では、まったく可能性はないのか、というと、そうでもないと思えてなりませんでした。
「別れるんなら、ダンナに出て行ってもらう」と快活に語っていた若いお母さん方の姿が、私の心に引っかかったままだったのです。あの女性たちが営んでいるのは、経済なのか、金儲けなのか、と考えると、そうとは思えない、つまりライフスタイルをつくっているのであって、とくに何かお金を儲けようとしているのではないのではないか、と思えてならなかったのです。
そういうことを院生や学生たちと話をしていると、学生たちがふとこんなことをいうのです。自分たちと同年代の若者たちの中で、一定数の人たちが、人の手の入った環境のいい農山村で、当時の言葉でLOHAS(Lifestyles of Health and Sustainability)な生活を営みたいと考えている。でも、どうしていいかわからないまま、都市に滞留して、フリーターやニートになっている。
そうでした。こういう若者の動向については、すでに追跡研究なども公表されていたのでした。そこで、農山村に若者たちを移住させて、就農ではなく、農業を生活の基盤にした新しいライフスタイルをつくり、都市に発信して、共に新しい生活づくりを進めるプロジェクトにできないかという話になったのです。いわば、まちづくりを、収益を基本とする経済活動としてとらえるのではなく、新しいライフスタイルをつくる文化事業としてとらえられないか、ということなのです。
この話を市長にしましたら、「我々がこれまでどれだけ苦しんできたのかわかっているのか。遊びじゃないんだぞ」と叱られました。そこで、「いろいろ考えても、これしか思いつかない。でも、お嫌なようなので、やめます。お世話になりました。」と帰ろうとすると、「ちょっと待て。他に手がないから、やってくれないか」というのです。
それでこの事業が始まったのです。新しい農山村づくりという意味と若者たちにとっても新しい生活づくりという意味を込めて、「若者よ田舎をめざそうプロジェクト」と名付けました。
事業の立ち上げとプロジェクト対象地域が決まりました。対象地域は、豊田市旭地区築羽自治区と敷島自治区、そのうち拠点の集落は総戸数30戸、人口40名ほど、高齢化率50パーセントを超え、最年少が42歳という限界集落でした。ここに若者を住まわせるのですが、あまり多くても集落が壊れてしまうので、10名を限度として募集することにしました。
でも、どうやって集めたらいいのかわかりません。そこは正攻法で、ということで、ハローワークに求人を出すことにしました。また、総務省の緊急雇用対策助成金を豊田市が申請してくれたので、その受け皿として、私が名古屋大学にいた頃の教え子たちが農業ベンチャーをつくって経営していましたので、彼らにもかかわってもらい、このベンチャー起業が若者たちを雇用することにしました。
募集の宣伝文句は、就農事業ではないこと、人の手が入ったきれいな農山村地域で農業を基本とした新しいライフスタイルをつくって、都市部に発信し、都市-農山村交流を活発化して、そのライフスタイルを広める事業だとしました。実施期間は2年半、その間は毎月15万円の給与を支給することとしたのです。
当初、豊田市の担当者も「先生、こんな事業に応募する人なんて1名もいないんじゃないですか」といっていたのですが、蓋を開けてみると、10名の募集に50名もの応募があり、担当者も驚いていました。私たちがもっと驚いたのは、誰もが高学歴なのです。応募者のうち最低学歴が高専卒、最高学歴が大学院修士修了だったのです。しかも、誰ひとりとして正規就労の経験がないのです。厳しい就職状況を思い知らされました。
この50名には、応募動機などを書いてもらいました。書類選考で20名に絞った後、この20名をプロジェクト実施の集落に1週間ほど住まわせ、その間に地元のじいちゃん、ばあちゃんたちと交流させ、農業研修をし、生活の技術を学ぶ機会を設けました。
その間に、私たちは地元を一軒一軒回って、「今度、こういう子たちが来るんだけど、遊びに来るんじゃないから。彼らなりに人生賭けてくるんだから、ちゃんと面倒見てね」と説得して回りました。そして最後に、この子ならいてほしい子10名を選んでほしいと地元の人たちにお願いして、10名を選んでもらいました。
なぜこんなに手の込んだことをするのかというと、私たちが選んで、あてがってしまうと、地元のじいちゃん、ばあちゃんの気持ちでは、外からあてがわれた、よそ者だという感覚が残ってしまうことを恐れたからなのです。
自分が選んだ大事な子だから、自分が責任をもって面倒を見よう、そう思ってほしかったのです。当事者として、受け止めるということです。
こうして10名が選ばれ、地元に引っ越し、地元の住民になるという意味も込めて、彼らには住民票も豊田市に移してもらいました。プロジェクトのスタートです。2009年9月でした。
まったくの手探りで始まったプロジェクトでした。企画と実施を担当した私自身が、農業などまったくの未経験者ですし、農村暮らしをしたこともありません。プロジェクトにかかわった者のほとんどが、まったくの素人だったのです。受け皿となってくれた私の教え子たちの農業ベンチャーも、農山村での事業は初めてでした。
そこで、まずはメンバーに地元の人たちとの良好な関係をつくることを求めました。当初から、メンバーには、農業をはじめる以前に、地元に挨拶回りをし、地元のお役を引き受け、地元に溶け込んで、生活の教えを請うことを指導してきました。まずは地元住民との信頼関係をつくることが大事だと考えられたからです。
気のいい彼らは、すぐに地元のじいちゃん、ばあちゃんと仲良しになり、じいちゃんは夜な夜な酒を持っては彼らの宿所を訪ね、ばあちゃんは若い子がお腹をすかせてはいないかと心配で、あれこれ世話を焼くようになったのです。
その後、地元の人たちに教えを請うて、農業の技術から生活の技巧までを教えてもらうことにしました。じいちゃん、ばあちゃんたちが、まるで自分の孫に教えるかのようにして教えてくれたのが、印象的でした。
それだからでしょうか、メンバーはプロジェクトが始まってすぐにこういいだしたのです。「こんなによくしてもらったことはない。地元の皆さんに恩返しがしたい。」「ずっとここに住みたい。ここに住んで、地元の人たちと一緒に自分の生活をつくりだしたい。」
ここに私はこのプロジェクトの可能性を見たのでした。
農業を主体としないとはいっても、やはり生活の基盤をつくるのは農業しかありません。しかも自然を相手にするので、自然のサイクルにあわせるしかありません。つまり、試行錯誤のサイクルは1年という長期サイクル、いいかえれば失敗しても次に機会が回ってくるのは1年後だということです。
しかも、中山間村の冬は厳しく、思うように農業生産ができません。技術的な未熟さと気候条件の悪さに、地元の先達たちの苦労が身に染みてわかるような経験を幾度もすることとなりました。しかし、そのたびに、彼ら若者たちを支えてくれたのが、私たちに胸中を吐露した地元のじいちゃんやばあちゃんたちだったのです。
そして助成金が切れる2年半後、彼らはようやく何とか生活の目処が立つようになってきたのです。この2年半で、10名だった当初の仲間のうち5名が離れていきました。しかし、誰もこの事業が嫌になって出ていった者はいませんでした。それぞれ家庭の事情などによって、涙を流しながら別れを惜しみ、じいちゃん、ばあちゃんは彼らのために壮行会を開いてくれるのです。そして、すぐにまた5名の若者がやってきて、仲間に加わってくれました。
最終的には、2年半を終えて、全員がこの土地に定着し、その後10年経ったいまでは、私が直接かかわりを持っている若者たちは60名を超えるほどになり、彼らを慕って周りに移住してきた若者たちは200名ほどにもなります。
子どもたちも生まれていて、いまは廃校になっている築羽自治区にあった築羽小学校は、廃校当時12名だったのが、現在、築羽自治区には30名ほどの子どもたちがいて、バスで隣の敷島小学校に通学しています。今後10年ほどで、築羽・敷島両自治区の学齢期の子どもたちは120名ほどになることが予測されています。
このプロジェクトは、助成事業としては2012年に終了しましたが、メンバーの全員が地元に残り、いまでは地元の中心的な役割を担う住民として活躍しています。プロジェクト期間中、さまざまな困難に見舞われましたが、彼らは仲間どうし助けあい、地元の人たちの支援を受け、じいちゃん、ばあちゃんたちとの交流を通して、新しい生活をつくりあげていったのです。
それは、農業を基本としつつも、農業に依存するのではない、農山村の豊かな自然資源を活用しながら、地元が蓄積してきた文化と若者の文化を融合させた、新しい生活スタイルをつくりだして、都市に提案し、都市と農山村との交流を深めることで、人々を巻き込んでいく、そうすることで経済が後から循環して、住民の生活を質的に豊かにしていく、こういう生活なのです。
これを「農的な生活」と呼んでいます。また、これを「多能工」になる生活ともいったりします。どういうことなのでしょうか。
私たちは、一般的に、仕事をしてお金を稼いで、そのお金で生活に必要なモノを買って、日常生活を送ることが普通だと考えています。しかしそれは普通なことなのでしょうか。サラリーマンになるというのは、そういうことです。会社で働いて、給料をもらって、その給料を使って、生活に必要なモノを買って、生活する。こういうことになっています。
でもそれは、サラリーマンとして生活することしかできなくなっているということではないでしょうか。だから、失業すると、賃金を得られなくなって、生活できなくなってしまいます。これを、「単能工」な生活、つまり一つのことしかできなくなってしまっている生活と、私は呼んでいます。
これに対して、多能工な生活とは、お金がなくても、自分で必要なものをつくりだせる力や技術を持っていて、それを使って生活することをいいます。農作物を作ることも、木を切り出すことも、それを加工することも、それらを使って家を建てたり、市場で売ってお金を儲けて、自分ではつくれないモノを買うことも、全部自分でできるようになっている。
それを都市部の生活にあてはめれば、一つの企業で働くのではなくて、たくさんの仕事を持って生活している、いわばパラレルキャリアの生活といってもよいかもしれません。
これを多能工になるというのです。
そしてそれはまた「農的な生活」といいかえてもよいでしょう。
プロジェクトが、本格化していったのは、2年半の補助金期間が切れてからでした。それまでは、どうプロジェクトを進めていったらよいのかを模索する期間だったといってよいでしょう。私自身がそうですし、参加した若者たちも、都市型の単能工の生活に慣れすぎていて、観念や身体の所作を切り換えるのに時間がかかったといってもよいと思います。
しかし、いったん観念が切り替われば、それをどんどん実践に移すことができます。たとえば、多品種で旬の野菜を無農薬でつくって売る移動販売、間伐材を都市住民に買ってもらう「木の駅」、経済の域内循環を促す地域通貨、都市と山里との交流を進める「ご縁市」、休耕田を都市住民に使ってもらい、作物を地元住民とともに収穫し、加工して、交流を持続させる「お米トラスト」「豆っこクラブ」などなど、地元の資源を使ったさまざまな交流事業を、若者たちは自分で企画して展開していったのです。
その過程で、彼らは人的なネットワークを広げていって、たくさんのサポーターを得ていきます。この仲間たちが、フリーペーパーを発行したり、インターネットで情報を交換したりして、新しい生活スタイルを発信し続け、リピーターが増えていき、そのうち、おもしろそうな生活をしているというので、彼らが受け入れ窓口となって、「農的な生活」を楽しみたい若者たちが移住してくるようになりました。
しかも最近では、環境学や工学の研究者がかかわって、エネルギーの地産地消の実験が始まっているのです。
(次回につづく)
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