新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2022.10.5
桝田花蓮(ますだ・かれん)
1999年生まれ。東京都出身。小さい頃から見続けてきた海外サッカーへの憧れを胸に、スペインで指導者になることを志す。中学・高校時代は地元の小金井市のFCベルタ、ちふれASエルフェン埼玉マリでプレー。卒業後は早稲田大学に進学したが、スペイン語圏でサッカーをするため、コスタリカ女子1部リーグのチームのセレクションを受けて合格。大学を中退してコスタリカリーグで初の日本人女子プロサッカー選手になった。母はスポーツ環境、教育問題などに精通したライターの島沢優子氏、父は日刊スポーツ記者。
桝田花蓮オフィシャルブログ: https://karenencostarica.com
Instagram:https://www.instagram.com/karen_rad_8/?hl=ja
――桝田さんは今年1月から、コスタリカ女子プロサッカーリーグ1部でプレーしています。なぜ、海外でプレーしようと思ったのですか?
選手を引退した後に、スペインでプロのコーチになりたいという目標があります。
それで、プレーしながら将来のためにスペイン語を学べる環境を探して、南米のスペイン語圏で探していたところ、コスタリカにたどり着いた、という状況です。
――指導者になりたいと思ったきっかけは、どんなことだったのですか?
兄の影響で小学生の時にサッカーを始めたのですが、中学時代に所属していたチームの指導者がサッカーの楽しさを教えてくれて、「自分もこんな指導者になりたい」と思ったことがきっかけです。
家族全員がサッカーが好きで小さい頃からよく海外サッカーを見ていたのですが、中1の時のコーチが、メッシのプレーとか、FCバルセロナのサッカーの魅力などを教えてくれました。中学生の頃からポジションはボランチでしたが、そう言われると試合を見たくなって、見るようになったらサッカーがどんどん面白くなって、選手としても上を目指したくなったんです。
中2の時の指導者も素晴らしい方で、選手と対話しながら、ミスをしても怒るのではなく、「どうしてそのプレーを選んだの?」「こういう体の向きをしたらこっちも見ることができたよね」と、視野を広げてくれました。ちょうどその頃に、自分がぐっと上手くなった感覚があったんです。その感覚を持たせてくれた監督に憧れて、「プロ選手になって、いつか引退したら海外で指導者になろう」と考えるようになりました。
――その頃から指導者としての目線を持つようになったんですね。選手としての意識も変わりましたか?
そうですね。違うポジションのことも考えてプレーするようになりましたし、いろいろな監督を見て学んだり、海外サッカーもよく観て情報収集をしています。
――いい出会いだったのですね。でも、日本ではなく海外で指導者になりたいと思ったのはなぜですか?
日本ではいい指導者やクラブは、すぐに結果が出ないから評価されにくいところがあるように感じます。
特に育成年代は「全国制覇」など、目の前の結果を求めるチームや監督が評価されやすく、それぞれのチームの色が見えにくくなっているのではないかな、と。
私がプレーしていたFCベルタは、セレクションで厳選された選手が集まるチームではなく、素人もいました。それでも、3年間でみんながうまくなれるチームでしたし、東京都の1部リーグでプレーしていて、上の代は関東大会に行くなど実績も残しました。
スペインでは、クラブごとに目指すスタイルや受け継がれてきた伝統があって、そのための育成システムを確立しているチームが多くあります。そういう環境で指導者を目指したいと思いました。
――海外サッカーを見続けてきたことが、グローバルな視点に繋がっているんですね。お父様はスポーツ紙の記者で、お母様はスポーツ現場や教育の分野に精通したライターさんです。ご両親の影響も大きかったのではないですか?
それは大きいですね。中学生の頃は、その監督がいい指導者だと思っていてもその理由を説明できなかったんですが、代わりに母が「監督のいいところは、怒らないで話を聞いてくれるところだよね」と言語化してくれました。だから指導者の良し悪しを理論的にわかるようになって、指導者になりたい、という思いにつながったんだと思います。
うちは自宅の2階と3階が吹き抜けになっていて、私は小さい頃から2階のリビングによくいたのですが、3階で取材している母の声をこっそり聞いていました。監督への取材や親の教育相談などをこっそり聞いているのが楽しくて、そこでいろいろな価値観を知ることができました。
ただ、自分のことに関しては小さいころから何でも自分で決めるように言われてきたので、高校はクラブチームでやりたかったので、埼玉のちふれASエルフェン埼玉の下部組織を選んで、そこに通うための高校も選んで、大学はコーチングを学べる早稲田大学に進学しました。
――プロを目指しつつ、指導者としての本格的な勉強もスタートさせていたんですね。
そうです。ただ、大学の授業の中で学ぶコーチングは、指導者資格を取得するための教科書に書いてあるような基本的なことが多く、期待していたほどではありませんでした。指導者の道を考える上では、昔から自分で興味のある指導者や海外サッカーの監督の本を読んで学ぶことがとても多かったですね。
――特に好きな指導者は誰ですか?
マンチェスター・シティのペップ・グアルディオラ監督です。前に率いていたバルセロナ時代からずっと見ていて、いろいろな本を読みました。彼自身がすごく人間的な魅力のある方で、サッカーだけでなく、ほかのスポーツや経営、経済を学んだり、チェスのスペシャリストと何時間も話したり。幅広い興味を持って、新しい発想を取り入れ続けることで監督として力がつくんだと思いましたし、それは大学の授業では教われないことでした。
サッカーではミスに対して追い込む指導者もいますが、ペップ監督は「選手がすごいプレーを見せてくれる瞬間のために何度もミスをするんだ」と。だから、彼のサッカーは見ていて面白いんだろうなと思います。
――サッカーはプレーの細部にも監督のこだわりが反映されますよね。理想の指導者像は、やはりグアルディオラ監督のような方ですか?
そうですね。今のサッカーの戦術的なトレンドや正攻法と言われるやり方ではなく、タイトルが取れなくても自分の信じるサッカーを追求し続けたり、一人ひとりの選手に時間をかけてあげる姿勢が理想です。
――ブログでも経緯を書いていますが、コスタリカに渡る前、卒業まで半年というところで中退したそうですね。改めてその経緯を教えてもらえますか?
大学3年の時にコロナ渦になってサッカーができなくなって時間ができたので、独学で指導者の勉強をするようになったんです。本を読んだり、学校の授業とは関係ない内容の学びも多かったのですが、その時間がすごく楽しくて、「新しいことを知ることってこんなに楽しいんだ!」と。その後、コロナ渦が落ち着いてサッカーと大学を行き来する生活に戻った時に、「あの学びの楽しさがなくなってきたな」と物足りなさを感じていたんです。
ちょうどその頃、海外で指導者を目指すためにも卒業後は海外のチームでプレーしたいと思い、知り合いの代理人の伝手でコスタリカのチームでセレクションを受けました。合格したことはもちろん嬉しかったのですが、コスタリカに来て、それまでの人生観が変わったんです。
――興味深いです。どんな風に変わったのですか?
コスタリカでは時間の流れ方が日本にいた時とはまったく違って、その環境や人に新しい刺激を受けました。その時に、「自分が生きる上で求めているのはこういう刺激なんだな」と感じたんです。知らないものを知ることとか、知りたいことを自分で調べてわかるようになる、そういう好奇心や探究心が自分の原動力になるんだと気づきました。そう気づいてから、日本に戻ってまたこれまでと同じ生活を続けることに意味を見出せなくなったんです。
――でも、大学はあと卒論さえ書けば卒業、という時期だったんですよね。「卒論を書いて卒業しておこう」とは思わなかったですか?
実は、卒論のテーマも決まっていました。2年前に日本フットボールリーグ(J1から数えて4部に当たる)の鈴鹿ポイントゲッターズというチームを率いたスペイン人のミラグロス・マルティネス監督という女性監督に、大学2年の春休みに会いに行って話を聞いたんです。
UEFAプロライセンスを最短で取得して日本の全国(男子)リーグで女性として初めて指揮を取った方で、スペインの指導のことや、日本に来た理由、練習の考え方など、なんでも答えてくれてすごく勉強になりました。ただ、卒論を書く前に彼女が辞めてしまって卒論のテーマを変えざるを得なくなり、他に書きたいと思う指導者がいなくて。辞めることに迷いはありませんでした。
――中退した後の不安や、ご両親の反対などが頭をよぎりませんでした?
不安はありましたが、その不安を大きく上回るぐらい、「今のままではダメだ、もっとやることあるじゃないか」という思いがすごく大きかったんです。
もちろん、親の反応も考えました。ただ、これまで自分の人生の選択を自分ですることを当たり前のように促されてきたので、大学を辞めることも受け入れてくれるのではないかと考えました。それで、伝えた結果はすんなり受け入れてくれました。その経緯は母も記事で書いていましたが、反対されると思っていたら、そもそもその発想にはならなかったと思います(笑)。
――コスタリカでは女子1部リーグのチームのクラブ・スポーツ・エレディアーノFFで日本人で同国初の女子プロサッカー選手としてプレーされています。ここまでの手応えはどうですか?
チームは前期リーグを終えて8チーム中2位で、上位4チームで行われるトーナメントでは準決勝敗退でした。カップ戦では決勝まで進んで、最終的には準優勝でした。試合のレギュレーションもそうですが、日本とはいろいろな面で違って、刺激を受けました。
――どのような刺激があったんですか?
コスタリカでは監督もコーチも観客もみんながサッカーに対して情熱的で、勝利に対して貪欲です。女子サッカーの試合でも1万人以上観客が入ることがありますし、試合ではループシュートやまた抜きなど、遊び心を感じるプレーも多いです。
熱くなりすぎて選手同士が衝突したり、監督が退場することもあるし、観客席から野次も飛んできます。我が強いチームメートも多くて、ミスの責任を押し付けられることもありますよ(笑)。でも、散々文句を言っても、良いプレーに対してはさらなる熱量で褒めてくれるんです。それに、試合が終わるとみんなすぐに切り替えて帰っていきます。
サッカーって、ミスを誰のせいにしようが、結局は試合でいいプレーをしたもの勝ちですから、そのメンタル面の切り替えの速さは羨ましいですね。そこは大きな違いを感じましたし、「文化の違い」というのはよくある言い回しですが、これか!と実感しました。指導者としても、そういう選手たちを指導した経験を持っているかいないかは大きいだろうなと思います。
――その熱さはサッカーが盛んな中南米の国らしいですね。監督の指導にも違いを感じましたか?
日本だと、監督は上の存在で威厳がある、というイメージがありますよね。でも、コスタリカでは選手と監督が、より近い立場というか、選手たちは監督になんでも話しに行きますね。
私が試合でうまくプレーできなくて、帰りのバスで落ち込んでいた時があったんです。その試合は前半で交代させられて、監督に対していじけたような気持ちを持っていたんですが(笑)、帰りに監督がこちらに近づいてきてぎゅっとハグをして、「君はチームに必要だよ」と言ってくれたんです。そこで「頑張らなきゃダメだな」という前向きな気持ちになれました。日本では拗ねている選手は放っておかれる場面を見ることが多かったので、それは初めての感情でしたね。
私は小さい頃から人見知りで自分の殻に閉じこもるタイプだったので、「監督と話しにいけないのは自分が悪いんだ」と思っていたんです。でも今は、「努力しなければいけないのは指導者の側なんだな」と思うようになりました。本当にいい指導者は、戦術論などよりも、人間的に選手から信頼を置かれる人でないといけないと思うからです。
――日本を外から見ることで見えることがいろいろあるんですね。ただ、違いが大きければ大きいほど、慣れるために大変なことも多そうです。
そうですね。私はもともと考え込むタイプで、なんでも自分のせいにして考えてしまうので、失敗したら引きずることもあります。人に当たり散らすよりはいいかなと思っていますが、周りの選手たちとの差に慣れるのは大変でしたね(笑)。
生活面では、プロといってもお給料は少なくて、働きながらプレーしている選手もいます。お店の店員をしたり、親の仕事を手伝っていたりもして、シーズンの途中でお金がなくてサッカーをやめた選手もいました。私自身、節約しながら生活していますが、親に助けてもらった部分もあります。
練習は早朝からで、試合はナイトゲームが多く、プレー環境は日本に比べても整っているとは言えないですね。
あとは、ビザを申請しているのですがなかなか下りなくて、チームから移民局に滞在を延ばせるように言ってもらってなんとかプレーできていますが…。コスタリカは近隣の国からの移民も多く、コロナ禍もあって対応がどんどん遅れている感じなんです。ビザがないと銀行口座を作れなかったり、支払いも難しくなるので、これ以上待つことは難しいんです。それで今年の夏に、スペインリーグへの移籍を模索しました。自分のプレー映像などを送って一度は決まりかけたのですが、なかなか話が進まなくて、最終的に断念しました。
――今後は、どうする予定ですか?
一度日本に帰国して、海外で指導者資格を取るための留学に向けて準備するつもりです。コスタリカではサッカーでも国柄も特有のものがあっていろいろな刺激を受けましたが、サッカーをより深く知るという部分では限界を感じましたから。
今後はヨーロッパで指導者の勉強をしながら、サッカーの知識を深められる環境に身を置きたいと思っています。
――目標に向かうための決断ですね。引退後に指導者を目指す選手は少なくないと思いますが、桝田さんが「ここだけは負けたくない」というポイントはどんなところですか?
試合を見たり本を読んだり、サッカーをより深く知ることへの興味と情熱だと思います。ベップ監督は、「大切なことは技量や経験や人の評価ではなく、どれだけ情熱を持って向かえるかだ」と言っていました。それにも影響されて(笑)、一番大切なのは情熱だ!と思っています。
――言葉の端々から熱さが伝わってきます(笑)。最後に、夢に向かうための原動力を教えてください。
好きなことに向かって、自分で自分の道を選んできました。だからこそ、いいこともそうでないことも受け入れて、頑張ろうと思えます。あとは、知らない世界をもっと知りたいという好奇心と探究心が強いですね。
――その景色を見るために、これからも妥協しないんですね。
そうですね。いつか、指導者になることができたらどんな景色が見えるんだろう?と楽しみにしています。
――ありがとうございました。今後のご活躍にも期待しています!
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この記事を編集した人
ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。