新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
生活・趣味
2022.08.26
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この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
カオスが人々の思いやりによってごちゃ混ぜになり、ごちゃ混ぜが雑踏のように人を呼ぶことで、「岡さんのいえ」はどんどん勝手に、いえ、自律的に進化し、その取り組みも深化していきます。深化が広がっていくといえばよいのでしょうか。
地域社会には日頃目に見えなくても、様々な力を持った人たちがいます。
「岡さんのいえ」には、たとえば元デザイン会社で働いていたデザイナーが子どもたちの見守り隊として、通ってきてくれています。この人は、数々の武勇伝を持つ伝説の建築デザイナーです。
この会社が請け負った建築があって、そのイメージパースの打ち合わせがありました。この人も同席する予定だったのですが、前日から行方不明。どうも飲んだくれていて、どこかで潰れているのではないかとの噂があったとのことです。でも、クライアントとの約束の時間が来たので、会社のデザインチームが出向き、クライアントのイメージを図面に落とす作業をし始めたのですが、双方が腕組みをしてしまって、話が進まなくなってしまった。
そこへ、この伝説のデザイナーが、酒臭い息を吐きながら登場。皆を一瞥するなり、ホワイトボードにさらさらとパースの原画を描き始めた。それを見て、腕組みをしていたクライアントが感激、是非ともそのイメージでお願いしたい、と話がまとまった、というのです。
この人が定年退職後、子どもたちの面倒を見てくれる好々爺としてやってきて、毎日愉しそうに過ごしていました。すると、ある日突然、一枚の絵を持って来て、毎月「岡さんのいえ」の新聞をカラーの表紙付きで出したいといってきたのです。素晴らしい絵で、子どもたちや「岡さんのいえ」のイメージがうまくとらえられているのです。是非とも、とお願いし、その後毎月、新たな新聞が発行されることとなりました。
ホームページもそうです。Webデザイナーの女性が子どもの遊び場を求めてやってきて、「岡さんのいえ」の活動に惚れ込んで、是非ともホームページをつくらせて欲しいと名乗り出て下さってつくられたのが、いまも運用されているホームページです。いまも、IT系の企業にお勤めの人が、ボランティアで管理と更新業務を手伝っていて、いろいろな人たちとの交流のプラットフォームとしても活用されています。
「岡さんのいえTOMO」ホームページ https://www.okasannoie.com
「岡さんのいえ」新聞もここから見ることができます。また、Facebookもやっています。
こうして、いろいろな特技を持った人たちが集まっては、深化し、その深化がどんどん広がっていく。これも「岡さんのいえ」の一つの姿なのです。
こういう深化がひろがりを見せ始めると、さらにこんなことが起こります。向こうからやってきては、ひろげてくれる、のです。
コロナ禍前ですが、各地のマスコミが取材して下さるようになり、空き家活用の先進例として、各地で知れ渡ることとなりました。そうしましたら、NHKワールドが取材に来て、高齢社会日本の新しいまちづくりの取り組みとして、世界に発信されることとなったのです。
その後、全国各地の自治体から訪問希望が相次ぎ、最後には活動に支障を来すというので、ご遠慮願うという事態になるほどまでになり、また世界各地、たとえばトルコや韓国、台湾からも代表団が訪問して、住民とくに子どもたちと交流する場面が広がっていきました。世界的にも、住宅地の一軒家を開放して、地域の住民がそれぞれの発案で使いこなすことで、新しい地域文化の拠点をつくっている事例は珍しいとのことでした。
そう、勝手に来てはひろげてくれるのです。
さらに、「岡さんのいえ」では、東日本大震災後、被災地の子どもたちを支援しようと、ある企業の助成金を得て、被災地の子どもたちを東京に招き、またこちらから現地に出かけて、お互いに励まし、支えあう活動を進めてきました。単に交流するだけでなく、被災地の文化を学び、地域の人々と交流して、新しいつながりをつくることで、お互いに自分たちのコミュニティづくりに生かしていく活動です。
また、地元の世田谷区の児童館などと連携して、アウトリーチ活動を行ったり、学校にスタッフを派遣して、学校の児童・生徒とともにワークショップを行ったり、さらには大学生を受け入れつつ、大学生と地元の学校の子どもたちとの活動を組織して、大学生のインターンシップ事業を進めたりするなどの実践も行われてきました。そうそう、地元のお祭りとも連携して、出店を出したりもしてきました。
このほか、「岡さんのいえ」のスタッフが各地の自治体や大学などの講師として出向き、活動を紹介するとともに、空き家活用による地域づくりにヒントを提供する、という動きも活発化してきています。
私の研究室主催の公開講座「社会教育の再設計」にも、オーナーのKさんに登壇いただいて、いわゆる「民設公民館」という新しいカテゴリーの形成などにも一役買っていただきました。
「まちのお茶の間」から始まった「岡さんのいえ」は、いまでは地域の人々がそれぞれの発想で使いこなすことで、どんどん自律的に進化していく、そして新しい人々のつながりをつくり出しつつ、セーフティネットでありながら、居場所であり、居場所でありながらわくわくするものをつくり出す文化の生態系のようでもあり、さらに社会とつながり、様々な人々を呼び込んで、カオスをつくり出すことで、その生態系をますます豊かにしていくハブのような場所なのです。というよりも、それは「関係」といったほうがよいもの、としてどんどん進化しているのです。
「岡さんのいえ」では、この生態系がツタが蔓延って窒息してしまわないように、自然公園のレンジャーのような役割を果たす人たちの集まりを月に一回開いては、密猟を防いだり、自然を手入れしたりして、無法地帯化しないように、気を配っています。多様な子どもや住民が集まるだけに、こういう手入れは必要なことでしょう。このレンジャー役に、私の研究室の院生たちもかかわっています。
この「岡さんのいえ」の活動をご覧になって、自分ではとてもとても、と思っていらっしゃるのではないかと思います。
でも、Kさんもこんなになるとは思ってもいなかったのです。ライターの仕事があったのに・・・・・・、といつもおっしゃっています。ライターの仕事をしていたのに、いつの間にか「岡さんのいえ」が面白くなってしまって、お金のことはどうでもよくなって(?かどうかは知りません。よく、もう大変!と叫んで?いますので)、気がついたら、「岡さんのいえ」に巻き込まれていて、貧乏くじ引いたわ、というのがKさんの言葉なのですが、でもまんざらでもなさそうなのです。
私の学生たちも、学部生時代からかかわって、面白くなってしまい、研究課題は異なるのに、「岡さんのいえ」に通い続けている大学院生がいます。また海外からの留学生で、「岡さんのいえ」にお世話になった学生の中には、日本の家族ができたといって、入り浸りになっている者がいます。それほどまでに居心地がよいのです。
誰も「岡さんのいえ」をこのようにつくろうと思ってかかわり、計画通り進めた人などいません。気がついていたら、こんなことになっていた、というのが偽らざる気持ちです。
これは、私も同様です。Kさんからご相談を受けたときに、「岡さんのいえ」をこうしようという明確なビジョンがあったわけではありません。
ただ、私の研究室が「雑踏のような」を標榜しているように、誰もが平場で自由にものがいえて、闊達に意見交換することで、新しい発想ややりたいことがどんどん出てくる、これを創発といいますが、そういう創発が起こるような場所として、「岡さんのいえ」があったら面白いだろうと思っていただけです。
それがどうでしょう。一旦地域の人々に受け入れられ、地域の人々が使うことの面白さを知ってしまったあとは、誰が何かしようとするまでもなく、勝手に、いわば生態系がどんどんその内容を豊かにしていってしまうかのように、「岡さんのいえ」が自動的にバージョンアップし、深化していってしまうのです。ここでは、「岡さんのいえ」はすでに建物や空間ではなく、人々のかかわり、つまり「関係」の在り方になっています。
そしてその関係が次々に新しいものとなっていく、その鍵は、「あれこれ考えず、自分がやりたいことを、まずやってみよう」ということです。
この動きは、商品開発や組織の革新を考える時のアート思考に似ています。
商品開発の考え方は、一般的には、クリティカル・シンキング(批判的分析的思考)、デザイン・シンキング(設計的目的設定的思考)、そしてアート・シンキング(自分中心的巻き込み型思考)と呼ばれたりします。
でも、ちょっとわかりにくいので、よく自分の大切な人にプレゼントをあげるときの行動になぞらえられます。私たちのような仕事をしている者は、クリティカル・シンキングが大切だ、といわれます。つまり分析して、課題を析出し、それを解決するためにはどうするのかを仮説として構成して、それを検証しつつ、モデル化するということです。しかし、私自身自分がやっていることを見ると、それはそうなのだけど、実はアート・シンキングではないかと思うところがかなりあるのです。
どういうことなのかといいますと、クリティカル・シンキングは、プレゼントをあげるときに、まず社会の流行を調べて、トレンドをとらえ、プレゼントをあげる対象もそれを欲しがっているだろうと分析して、それをプレゼントする。こういうことだといわれます。それで、どうでしょうか。皆さんも経験があるのではないかと思いますが、一応、喜んではくれますが、特に欲しいものではない、という感じ、ではないでしょうか。クリティカル・シンキングは、大切な人をもその他一般の人々と見なすという大きな過ちを犯しがちなのです。当たらずとも遠からずなのですが、当たらないのです。
では、デザイン・シンキングはどうか。大切な人だから、はずしてはいけない。だけれども、本人に何が欲しいのかを聞くのは野暮すぎる。だから対象を慎重に観察して、様々な設問を設けて尋問(!)し、何を欲しがっているのかを探り当てて、プレゼントする。こういうことなのだそうです。それで、結果はどうなのでしょうか。よくあるオチは「あ、それ持ってる」といわれることです。しかもはずしたときは大変です。「そんなもの、要らない」といわれてしまいます。
アート・シンキングはどうでしょうか。アート・シンキングな人は、大切な人だからと相手のことを観察したり、社会のトレンドを調べたりと、そんな七面倒くさいことはしません。自分が欲しいものを「これ美味しかったよー。食べてみて」「君にも是非食べて欲しい」といってプレゼントします。プレゼントの中身については、相手のことは何も考えていないといってよいでしょう。でも、プレゼントをもらった人はどう思うかというと、たとえそれが自分は嫌いなものであっても、ああ、この人は自分のために自分が一番お気に入りのものを贈ってくれた、といって感激する、少なくとも不快な気持ちにはならない、こういうことになる、というのです。
しかもここでは次によいことが起こります。プレゼントをもらった人は、それが嫌いであっても、気持ちがうれしい、ということは、次に、自分が好きなものをその人にあげようとすることが起こり、お互いに気持ちが深まるのです。その上、こういう関係の人は、周りにもお節介で自分の好きなものを薦めますから、どんどん関係が広がっていくのです。
なぜアート・シンキングが面白いのかといえば、贈られているのはモノでなくて、気持ちや思いだからです。そして、プレゼントの本質も気持ちや思いを伝えるものであることを考えれば、アート・シンキングが最もプレゼントの本質を衝いていることになります。
私たちの研究もアート・シンキングだと思うのは、そういうことです。どんな研究であっても、人々のしあわせのためのものです。そういう研究は、自分がやっていて愉しいはずですし、自分自身が社会に生きている以上、自分が愉しいものは、誰かを楽しませることができ、次々に連鎖を生んでいくことになる。だからこそ、「雑踏」のような生態系の関係が必要なのです。
まず自分のやりたいことを突き詰めてやってみる。このことが、空き家活用に留まらず、地域活動の鍵なのだといえます。
ところで、「日本一おかしな公務員」の山田崇さん(『日本一おかしな公務員』、日本経済新聞社)は、地元塩尻市のまちおこしを進める過程で、大切なことに気づいたといいます。「空き家」はたくさんあるのに、「空いていない」のです。
空いているから空き家なのに、なぜ空いていないのか。バカなことをいうな、と思うかもしれません。でも実際のところ、空き家の多くは空いていないのです。「岡さんのいえ」はたまたま大叔母であった岡さんが姪孫のKさんに遺贈したから、そのまま使えたのかもしれません。
でも、空き家は空いていない、このことが実は使わせてもらうことの極意につながるのだと、山田さんはいいます。
「空き家」を使って新しいコミュニティをつくることを面白そうだと思っても、実際、空いている空き家は少ない。しかも、気軽に貸してくれる大屋さんもそんなに多くない。だからこそ、行政は空き家問題に悩まされているのです。なぜなら、それは個人の所有物であり、不動産という資産です。しかも、繰り返しますが、空き家は空いていない。仏壇から家具から生活用品から、と様々なものが空き家には詰め込まれたまま、人がいなくなっているだけなのです。
だから大屋さんは貸したがりませんし、処分するにもできないまま、放置されているのです。
そしてだからこそ、山田さんはそこに空き家活用の鍵があるというのです。まず、使わせて欲しい空き家があったら、人伝手に大屋さんに状況を確認し、ひとりだと嫌がられるので、まちのみんなで、掃除しますよ、と持ちかけて、大屋さんを含めてみんなで大掃除をする。そうしているうちに、空き家の価値がみんなに伝わって、みんなで使いたいから貸してもらえないかという話になる。大屋さんも、みんなで責任をもって使ってくれるのなら、ありがたい、と受けとめるようになる。こんなことが多いのだというのです。
無理やりではなく、お互いにありがたいという気持ちが持てるような関係をつくりながら、本当にありがとうという気持ちで使わせてもらい、そこにアート・シンキングたくましい人々が集まって、愉しいことをあれこれやり始めると、スロースタート、スモールスタートでも、どこかでブースターが発火して、まちのハブとなっていくのだと思います。
ちょっとした空間を「開いてみること」、こんなことがこの社会の在り方を草の根から変えていくのかも知れません。
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