新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2022.08.12
芦田剛史(あしだ・つよし)
オートバイメカニック。「芦田屋」店主。1979年生まれ、兵庫県姫路市出身。幼少期からバイクや車に興味を持って仕組みを学び、メカニックの道へ。高校を中退して地元の整備工場で修行を積み、20歳の時にハーレー界に進出。国内ディーラーで6年間勤務した後、25歳で渡米。本場アメリカで最先端の考え方や技術を体得して帰国した。2020年から「芦田屋」を経営。あらゆるバイクの点検や整備をこなしながら、さまざまな素材を使って「世界に一台のバイク」を作り上げる。雑誌「WITH HARLEY(ウィズハーレー)」では自作の小説を連載中。
ホームページ:http://ashidaya.net
Instagram:https://www.instagram.com/ashidaya_motorcycle_works/
芦田屋ブログ:https://ashidaya.blogspot.com
――「芦田屋」の店内に並んでいるのは、個性的なハーレーばかりですね。どのような依頼が多いのですか?
バイクの点検や整備、清掃から部品の製作、フルカスタマイズまで、バイクに関することならすべてを請け負っています。
たとえば、絶版になってしまったバイクのファンの方がいるのですが、もうメーカー自体がなくなってしまって修理するための部品もないので、その部品を作って乗れるようにしてあげることもあります。ギアを溶接して直して再生させたりして、それはめちゃくちゃ時間がかかりますけれどね(笑)。
――様々な工具があるのはそのためなんですね。HPを見ると、ガレージグッズやミニチュアなどの製作もされているとか。
はい。遊び感覚で造形するのも好きなので、鉄、アルミ、ステンレス、ブロンズなど、なんでも使ってお客さんのリクエストにお応えしています。常連さんに「灰皿を作って欲しい」と頼まれて作ったりもしていますよ。
――コロナ禍でバイクブームがきているようですし、お忙しそうですね。
おかげさまで常連さんだけでなく、初めての方も増えてきました。ディーラーだとスタッフが多くて誰が電話に出るかわかりませんが、うちは個人でやっているので、いつ電話しても僕が電話に出るから頼みやすいと言っていただけます。ありがたいことですよ。でも、当初はこんな予定ではなかったんです。毎日マイペースにのんびり、バイクと向き合おうと思っていましたから(笑)。
――芦田さんがバイクに興味を持ったのはいつ頃だったんですか?
小学校の時に、兄のバイクに初めて乗せてもらった時ですね。自転車は脚力で動きますが、バイクはその限界をはるかに超えるスピードをいとも簡単に出すじゃないですか。その感覚を初めて味わった時の衝撃が忘れられなくて。子供心に、エンジンの力に大きな可能性を感じたんです。「エンジンがついているって、こんなにすごいんだな!」と。
――それで夢中になったんですね。その後、どうやってバイクの知識を広げていったんですか?
機械的なものに目覚めて、ラジコンに夢中になりました。中学生になってからはバイクを解体してもう一度組み立てたりして、構造やエンジンの仕組みを勉強しながらやっていましたね。高校の先輩から修理や塗装を頼まれることもありました。特別な才能があったわけではないのですが、何事も独学で、コツコツ積み上げるタイプだったんです。
今はYouTubeなど、インターネットで解決できることが多いですが、当時はインターネットがなかったので、いろいろな文献から情報を得ていましたね。整備のハウツー本を買い漁って読み、その知識を活かして友人の家の倉庫で廃車になっていたバイクを復活させたりして経験を積み重ねました。
電気装置の見たこともない部品に遭遇して頓挫することもあったんですが、当時は質問できる相手がいなかったので、その都度文献を読んで解決する、というトライアンドエラーの繰り返しでしたね。
芦田屋のお客さんや同業者から、「どんなメーカーやどんな車種でも、初見ですぐに対応できるのはなぜですか?」と聞かれることがあるんですが、そういう経験の中で、自分の目で見て構造物を分析する力が培われた面もあるのかな、と思います。
――すごい情熱と行動力ですね!それで、メカニックの道を目指されたんですか。
はい。16歳ぐらいの時には「オートバイのメカニックになりたい」と思っていました。高校にはほとんど行かず、入学してすぐにやめてしまったんです。
――なぜやめてしまったんですか?
当時は学校があまりにもつまらなかったんですよね。でも、「一般教養は身につけておかないと」と思って、教科書だけは家で読んでいました。独学で(笑)。ただ今となっては「学校は絶対に行ったほうがいい」と、声を大にして言いたいですね。僕自身、就職活動の入り口にすら立てない経験をして悔しい思いをしたことがありますから。
ただ幸いだったのは、「これをやるんだ」と決めたことから、一歩も引かずに来られたことです。途中で引いたら危なかったと思いますよ。学歴がなくて、極められるものもなかったら、人生の戦況は厳しかったと思います。学校にいかないというのはそれだけ選択肢が狭くなるものなんだなと。
――学校をやめた後、どうやってメカニックへの道を切り開いたんですか。
当時は「バイクは将来性がない」と言われていて、車も好きだったので、16歳の時に地元の自動車整備工場に入りました。「整備士になりたいんです」と飛び込みでお願いしに行ったら、最初は「学校に行け」と門前払いされました(笑)。
ただ、「すぐに仕事がしたいんです」と食い下がって、定時制の高校に入る約束で働かせてもらったんです。結局行かなかったんですけど(笑)。でも、工場では「お前、意外と頑張るな」と認めてもらえて。16歳になったばかりの頃で、運転免許は持っていないのに車の整備士資格を持っていました。
――整備工場で、貪欲にスキルを吸収していったんですね。そこからどうやってハーレーの道に?
20歳ぐらいの時に、勤めていた工場の社長とエアコンの修理方法でケンカして「もうやめます!」と飛び出してしまったんです。
その後、警察官になろうとした時期もあったんですが、「高校を卒業していない壁」にぶつかりました。それで、「メカニックとして絶対に誰にも負けないようになろう!」と覚悟を決めました。横道に外れたくても自分にはその道はない。「高校に行かないんだったら、絶対にここから逃げちゃだめだな」と思いましたね。
――お話を聞いていると、人に対しても自分に対しても、負けん気の強さが伝わってきます。
たしかに、負けん気は凄まじいものがありましたね。それは今も変わらないと思います。内に秘めて、あまり出さないようにしていますが(笑)。
――新しい仕事はどのように見つけたんですか?
父から「日産自動車の工場がメカニックを募集している」と聞いて、経験を買われて採用されました。そこで「仕事ができるね」と評価されて、1年後に系列のハーレーダビッドソンの社長から引き抜かれたんです。
――そこでハーレーと繋がったんですね。ハーレーはもともと好きだったんですか?
好きでしたね。シンプルに「カッコいい!」と思っていました。ハーレーって、アメリカで育った固有種なんですよ。あの広い大地の一本道を長時間走り続けるという事情で辿り着いた形なので、他国では見られない面白いスタイルなんです。
あと、当時ハーレーのメカニックが着ているつなぎがすごくカッコよく見えて(笑)。仕事がより専門的なところにも惹かれて、オファーをもらった時には二つ返事で「行きます!」と答えました。
――負けず嫌いな思いを力に変えてきた芦田さんにとって、当時、仕事上のライバルは?
当時は、会社の同僚や先輩方がライバルでした。ただ、16歳の時に40、50代に混じって仕事をしていたので、実力も圧倒的に負けていたし、「負けたくない」というよりは、毎日ついて行くのに必死でしたよ。
恵まれた環境で仕事を真面目にやっていたので、そのうちに「仕事が早くて稼げるメカニックがいる」と関西圏でもてはやされるようになって。当時、少し天狗になっていました。今考えるととんでもないです(笑)。
――国内で評価されてステップアップする道もあったと思いますが、25歳の時から2年間、アメリカで修行をされていますね。何がきっかけだったのですか?
2003年に、ハーレーのディーラー・ミーティングというのがアメリカであって、そこに行かせてもらったんです。その時に受けた衝撃はすごかったです。
ディーラーの敷地が日本とは比較にならないほど広く、エアロスミスの曲をガンガンにかけて、コーラを飲みながら仕事をしているメカニックの作業風景がとにかくカッコよく見えました。メカニックはツナギではなくて、ワークシャツにズボンというスタイル。それもカッコよく映って「こいつらにはまだ負けているな」と思ったんです。当時はイチローがMLBで活躍していたので、「俺もメジャーに行くぞ!」と(笑)。
――負けず嫌いのツボを押されたんですね(笑)。アメリカでは特に、どんなことに衝撃を受けたのですか?
日本のディーラーは3、4人で工場を回しているんですが、アメリカはメカニックだけで10人以上いました。その中でもスキルが高い人と低い人の差が大きくて。本当にすごい技術者は1人か2人なんですが、その実力は圧倒的で、仕事が早くて、かつ正確でした。アリゾナのディーラーで出会った天才メカニックは、僕が丸2日悩んでも直し方を見つけられない故障を、一目見てパッと言える人でした。
アリゾナでは9カ月間勤めて、その後に、ラスベガスのディーラーに移籍してさらに9カ月勤めたんです。きっかけは小磯博久さんという、当時のハーレー業界ではほぼ世界トップレベルとして知られた天才日本人メカニックがいたことでした。勝負を挑むつもりで行ったのですが、実際にお会いすると、発想力やIQが高くて、僕より経験年数は少ないのに太刀打ちできないレベルでした。「さすがに、これは勝ち目がないな」と思いましたね。その出会いは、ある意味、挫折でした。「どう頑張ってもこの人には勝てない」と、一番を目指さなくなってしまったんですよ。
――アメリカでの出会いで、人生観も変わったんですね。
そうですね。そこからは「最終的に自分がどこまでいけるのか」という自分との戦いに切り替わって、あまり人と比べることはなくなりました。あとは、その2年間でいろいろなスキルを身につけることができました。自分の作業をしながら、天才メカニックたちの仕事ぶりをノートにメモして、誰かとしゃべっている内容まで書き写していましたから(笑)。
――海外から来たメカニックとして結果を出さなければいけないプレッシャーもあったと思いますが、どんなふうに評価されたのですか?
最初の頃は友達も家族もいない土地で、言葉もうまく喋れないけれど結果は出さなければいけない、という圧迫感からホームシックになったこともありました。ただある時、誰も直せなかった故障を直したことで評価が急上昇したんです。アメリカはメカニックの明確なランク分けがあって、アリゾナでは一番上の「A」ランクまでいけたおかげで、信頼してもらえるようになりました。
――それはすごいですね! 「他の人にここだけは負けない」というポイントは何ですか?
「絶対に諦めないぞ」という粘りでしょうか。今もそうですが、直るまではどんなことがあっても諦めないです。中には1カ月近くかかるものもありますが、お客さんにも「絶対に直すから待ってほしい」とお願いします。結果として、今まで直せなかった故障はないんですよ。ここは大事にしているポイントですね。諦めなければ、絶対に壁は破れると思います。
――2008年に帰国されてからは、日本のディーラーで活躍されたんですね。
はい。日本では、昭島や中野、目黒などのディーラーで仕事をしました。そこではアメリカの経験が生きましたね。最後は整備の工場長なども任されるようになりました。
――そして、2020年に「芦田屋」を立ち上げました。もともと独立願望はあったのですか?
はい。「いつか自分のショップを持ちたい」という目標があったので、40歳の節目でお店をスタートしました。「どんなに難しい依頼でも最後まで丁寧にやり遂げたい」とか、「自分はこういう方法で直したい」という希望があっても、ディーラーでは会社員だったので限界がありました。独立したのは、「それらをすべて自分流でやったらどうなるかな?」というチャレンジもあるんですよ。
――徹底的にこだわり抜く丁寧な仕事が今の多忙さに繋がっているんですね。ただ、一人だからこそ大変なこともあるのでは?
生々しい話ですが、お金の工面は大変ですよ。特に部品の仕入れが大変で。海外から輸入することもあるのですが、一度に100万円以上が部品代として最初に飛んでいって、その経費を回収できるのが1、2年後ということもあります。もちろん、すぐに売り上げに繋がる仕事もありますが、その工面はやっぱり大変ですね。独立して1年目の売上が、ディーラー時代の税金で全部持って行かれてしまった時は「もうどうにでもなれ!」と思いましたが(笑)。ようやく危ない線は越えました。
――それは良かったです。仕事の息抜きはどうしているんですか?
趣味も仕事で、仕事は仕事という感じでスイッチングができないのは悩みです。それでも昔は24時間仕事に集中できていたんですが、最近はさすがにしんどいと思うことがあって。オフはリフレッシュするためにツーリングに行っています。人のいない林道を走ると気持ちいいんです。乗るのはオフロードバイクなので、仕事のスイッチが入らないんですよ。ハーレーに乗ると、休みの日でも触った瞬間にスイッチが入ってしまって、気づくと景色も見ずにバイクの診断をしていますから(笑)。
――芦田屋のブログ に綴られる日々の思いや出来事が小説のような筆致で惹き込まれます。書くこともお好きなんですか?
ええ。小学校の頃から書くことが大好きで、遊びでいろいろと書いていました。
実は今、小説を書いているんですよ。「こういうストーリーがあったら絶対に面白いな」という話が頭の中にいっぱいあるので、それを形にしたいなと思っています。あと、「WITH HARLEY(ウィズハーレー)」という雑誌の巻末で連載をさせていただいています。ハードボイルド系の話で、バイク乗りの主人公が仲間を殺された復讐に走る、という物語です。
――それは読んでみたいです。今後チャレンジしたいことは他にありますか?
「メカニックだけの会社を作ろう」というコンセプトで、「芦田屋」を株式会社化して規模を大きくしていきたいと思っています。メカニックの中には会社に疲れてやめたくなる人もいて、せっかく腕がいいのに運送屋になってしまったり、というケースもあるんです。だから、「やめたらもったいない」というメカニックに環境を作ってあげたい。「芦田屋」はその種火でもあるんですよ。
――「自分流」の中で、人も育てているのですね。
はい。僕はお金には全然興味がなくて、「自分が何をしたか」ということが大事なので、メカニックが生き残れる環境を作りたいと思っています。経営は大変ですが、「欲を出さずに自制する」という己との戦いでもありますね。
――これから、ますます忙しくなりそうですね。最後に、芦田さんのように目標や夢を叶えるためのアドバイスをいただけますか?
自分のやりたいことを漠然と捉えるのではなく、「自分がなりたい姿」を映画のようにイメージして、頭の中で何度も再生してみてほしいです。漠然とした絵ではなく、なるべくリアルな映像の方が、夢が叶った時のワクワク感が出ますよ。僕はアメリカで活躍する自分の映像を何度もイメージして、そのストーリーを現実に沿わせていきました。最後は力技ですけどね(笑)。
まだ本気になれるものが見つからなくても、興味を持ったら映像を思い浮かべて、ワクワクできたら、それはやりたいことなんだと思いますよ。逆に、どうしても映像が出てこないことは、そんなに興味がないことかもしれませんよ。僕は、警察官になった自分は想像していませんでしたから。
あとは、やりたいことに対して「日付」を入れること。期限がないと、気づいたらできなくなっていることもあるので、自分にリミットを課す。「夏休みの宿題方式」と呼んでいるんですが(笑)。それは目標に近づくために大事なことだと思いますよ。
――ありがとうございました!今後のご活躍にも期待しています。
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この記事を編集した人
ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。