生活・趣味

【寄稿】「よきこと」に気づいて、実践する|〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる(1)

2022.06.30

〈ちいさな社会〉を愉快に生きる・1
息苦しく不穏な時代の渦中にいながら、新しい⾃分の在り⽅を他者との「あいだ」に見出し、〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる人々がいます。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、その〈ちいさな社会〉での生き方を追い、新たな「⾃⼰」の在り⽅を考えてみましょう。
連載第1回の本記事ではまず、私たちを取り巻く背景と、これからを生きる指標を考察します。

     

    

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

牧野先生の連載はこちら

 


 

 

コロナ禍のトンネルの先に


    

コロナ禍の長いトンネルの先に、ようやくウィズ・コロナの時代の薄明かりが見えたと思った矢先に、きな臭いニュースが飛び交う日常が待っていた——。

     

ただでさえ、生活に追われて忙しくて、自分を見失いそうなのに、そこにコロナ禍が襲ってきて、三密を避け、マスクを着用し、食事中も黙食をと、半ば強要され、仕事もリモートとなって、それまでの働き方を変えなければならなくなって、ようやく慣れてきたと思ったら、今度は戦争。いったいこの世の中どうなっているのだ、というやりきれない感じを抱いてはいないでしょうか。

    

なんだか、自分の責任ではないことに、気がつくと巻き込まれていて、その事件の当事者にさせられてしまっていて、その戸惑いやイライラを持って行く先のないまま、日常生活の場でそれらの責任を負わされてしまっているかのような、ちょっとした無力感というのか、不公平感というのか、そういう気持ちを抱えてしまっている自分を感じて、それがまた人々のやりきれなさを増幅している、そんな印象を持ちます。

     

   

しかも、そういう気持ちの持って行き場のないまま、事態ばかりが進行してしまう。そういう置いてけぼり感にも、自分がからみつかれている感じがあるかも知れません。

    

自分の外にある何か大きな力が自分に働いていて、自分がしたくてしたわけでもないのに、気がつくと何か不利益なことが起こっていたり、負債を抱え込まされてしまっていたりするというような、軽い被害者意識のようなものをみんなが植え込まれてしまった、そして自分こそがその事態の当事者なのだから、自分こそを大事にしてくれ、と誰もが虚空に向かって訴えあっているような、そして誰もその訴えに応えてくれないことにイライラ感が募る、そんな空気が社会に漂っています。それがまた、人々を分断してしまい、人々は孤立のなかで自分が日常生活の場でしっかりと地に足をつけて生きているという感じを失ってしまっている。そう感じます。

    

これが、この社会の深いところで密やかに進行している社会の底抜けの一つの姿なのかも知れません。

                
  
  

命は「もの」ではない


      

しかし反面で、私たちはこのような事態に直面して、何かしら新しい自分を発見していることも事実です。

   

ロシアによるウクライナ侵攻は、21世紀のこの時代に他国を侵略するなんて、という誰もが想像しようとも思わなかった20世紀型の国家の戦争として展開しています。しかし、それはこれまでの戦争とは大きく性格を異にします。SNSの発達です。

    

政府や大本営による括弧付き(眉唾物)の公式発表や大マスコミの報道ではなく、市井の人々が直接発信者となって、生々しい戦争の映像が、私たちの掌の中に届けられる、いわば有無を言わせぬ形で、私たちの日常生活が戦場とならざるを得ない、そんな戦争でもあるのです。

   

そして、そこで私たちは人の命がいかにも簡単に蹂躙されることに驚き、怒り、そして失われた命を前に嘆き悲しむ人に同情し、難民となった人々の姿や、とくに無垢な子どもたちの被害に心を痛めています。

   

そこで、私たちが改めて感じとったのは、人の命は「もの」ではないということではないでしょうか。

    

個人が生きているということにおいては、それは一個の個体の生命かも知れません。そして、その肉体の生命ということだけを受け止めれば、確かに「もの」なのかも知れません。

    

しかし、その個体の生命が失われることで、嘆き悲しむ人々がいて、怒りに身を震わせる人たちがいること、さらにそんな見ず知らずの人々の姿を見て、憐れみの情を抱き、何かしないでは居心地の悪い思いをする自分がそこにあることに、私たちは気づいています。

    

    

つまり、私たちは、命は「もの」ではなくて、「生きている」という「こと」、人と人との「あいだ」にこそ人は生きていて、それこそがその人が生命を持っているということの証なのだということを、改めて感じとっています。

    

そこにあるのは、何かしら人としての、その人がいるからこそ自分を感じとることができる、そういうかけがえのなさとともに私たちに迫ってくる、その他者の呼びかけのようなかかわりの在り方なのではないでしょうか。

    

そこでは、命は「もの」ではなくて、「こと」とでもいうべき在り方を獲得しているといってもよいでしょう。私たちは、この「こと」である命を「ともに生きている」という感覚を持つことができる、そういう力を持っているのです。命とは「関係(かかわり)」なのです。

   

そして、私たちが得体の知れない大きな力の中で見失っていたのは、自分の命が「もの」ではなくて、「関係」だという当たり前の「こと」だったこと、このことに私たちは改めて気づいているのではないでしょうか。

   
   
   

他者を慮る力


     

このことは戦争に限りません。同じようなことを、身近な例でも感じています。

    

私がかかわっていたコミュニティスクールづくりの実践での事例です。コロナ禍のはじめの頃、マスクが不足したことがありました。その時に、私とかかわりのあった子どもたちが、家で母親にミシンの使い方を教わって、友だちとともに、地元の高齢者のために布マスクを縫って、町内会に届けたという事例がありました。この子たちは、小学生の頃、私たちの取り組みの一環だった地域学校協働活動に参加していて、地元の高齢者と親しい関係を築いていた中学生です。

     

その子たちに、なぜマスクを縫おうと思ったのかを尋ねてみますと、こういうのです。「マスクがなくなって、自分たちも不安に思っていた。その時、あのおばあちゃん、あのおじいちゃんたちも困ってるんじゃないか。不安に思ってるんじゃないか、と思った。何か自分にできることはないかと考えていたら、テレビで、布マスクのつくりかたをやっていた。これだ、と思って、お母さんにミシンの使い方を習って、友だちとマスクをつくって届けた」と。

    

「その時どんな感じだった?」と聞きますと、「マスクをみんなで縫っている時、うれしそうにマスクを受け取って、つけてくれるおばあちゃんの顔が浮かんでうれしかった。なんだか、気持ちがウキウキしてくる感じだった」のだそうです。

    

    

そして、この子どもたちの思いがけない贈り物に、今度は地元の高齢者が応えます。地元住民に声をかけて、学校のコミュニティルームで子どもたちのために布マスクを縫って、学区の小中学校全校生徒一人あたり2枚の布マスクを学校に届けたのです。

     

このお年寄りたちにも「どんな気持ちだったのか」と尋ねました。すると、「自分たちもマスクが買えなくて、不安で仕方がなかった。そんな中で、子どもたちが布マスクを縫って届けてくれた。思いもかけない贈り物でびっくりするやら、うれしかったやらだったけれど、子どもたちもマスクを買えなくて困っているだろうし、親御さんたちも不安で仕方がないだろう、そんな中で高齢者のためにマスクを縫ってくれるなんて、ってほんとうに感激した。それなら、今度はこちらの出番だというわけで、みんなに声がけしたら、こんなにたくさんの人が集まってくれて、子どもたちのためにマスクを縫ってくれた。それがうれしくてね」とのこと。

   

「子どもたちが、このマスクを受け取って、つけてくれる姿を想像して、うれしかったし、元気に過ごしてね、という応援したい気持ちになった」「そういうことができる自分のこともうれしかった」というのです。

       
   
   

「よきこと」に気づき、実践する


   

「よきこと」に気づいて、実践する力を、誰もが持っているのだといえないでしょうか。そこにあるのは、咄嗟の時に誰かのことを慮り、そのために何かしようと気づき、実際にそれを行おうとする想像力と行動力ですし、それを通して自分自身を自分で受け止めている存在の姿です。

   

そこでは、まずは「あのおばあちゃん、あのおじいちゃん」という具体的な身近な他者の存在が、自分というものを感じさせてくれるとともに、それが徐々にひろがって、見ず知らずの子どもたちのために、その子どもの顔を思い浮かべながら、その子のためになれる自分を感じとってうれしくなってしまう自分というものが生まれてきています。

    

    

このことはまた、私たちがとらわれになってきたアイデンティティとは異なる自分という存在の在り方が、本来の私たちの在り方なのだということを示してはいないでしょうか。

   

アイデンティティとは、「◯◯として」または帰属としてとらえられる自分の在り方です。つまり、社会的な役割を担うことで外部から与えられる枠組みに自分をあてはめることで得られる自分というものの同一性、つまり自分はこういう人間なのだという認識のことです。

  
   
    

アイデンティティではなくて「あいだ」


    

この社会では、従来のようなものの豊かさを追い求めるような社会が終わりを告げ、人々の価値観が多様化して、承認欲求が人々の基本的な欲求になることで、アイデンティティが不安定になって、しばらく経ちます。

   

つまり、人々にあてがわれる社会的な枠組みが強固なものから流動的な、多様なものへと変化して、動揺をし始め、その枠組みからこぼれ落ちてしまった人々が、自分のアイデンティティの持って行き場所を探して彷徨する時代に入っていたのです。

   

「私さがし」「自分探し」が一つのブームとなり、さらにはそれが内向して、身体を傷つけることで、その痛みなど固有の感覚に自己を託そうとするような現象も現れていました。

     

    

それはまた、自分消費ともいわれたりしました。そう、そこでは、自分という存在はアイデンティティという枠組みに押し込められる「もの」のような扱いでした。自分という存在の確かさを求めて、人々は「私さがし」というゲームに翻弄されていたのです。

    

その人々が追い求めていた存在の確かさとは、生きていることの実感といってもよいのではないでしょうか。この生きている実感が「もの」のように受け止められていたのです。

   

でも、先に見た子どもたちやお年寄りたちは、アイデンティティによる自分というものを必要としていません。誰かを慮り、「よきこと」に気づき、それを実践することで、誰かを思いやり、それができる自分をうれしく感じ、それと同じことを他者にも感じて、自分を他者との「あいだ」に立ち上げているのです。それこそが、その人にとっての「自己」、つまり存在なのではないでしょうか。

    

そうであるとしたら、その「自己」とは、常に新たな他者との「あいだ」で、常に新たな「自己」として生まれ続ける、しかもそうすることで、その他者自身をも新たな「自己」へと生み出していく、そういう動的だからこそ安定している、常に自分を他者との「あいだ」つまり社会に位置づけることのできる「自己」として自分の存在の在り方を獲得していることになります。そしてそれこそが私たち本来の在り方なのではないでしょうか。

     

「あいだ」の存在としての「自己」、これこそが私たちがこの世界に生きているという「こと」なのです。そこでは、自分が他者との「あいだ」にいきいきと息づいているという実感を得ることが、おのずと成り立っている、つまり自分の身体をもしっかりと受け止めることができているように見えます。

             
   
   

〈ちいさな社会〉を愉快に生きる人々


              

コロナ禍の、そして戦争が起こるような不穏なこの時代ではあっても、だからこそ私たちはそのような自分ではどうしようもない状況におかれることで、改めて本来の在り方を獲得しているのかも知れません。

    

そしてそれは、私たちの日常生活の場という時間と空間において、身近な人々との「あいだ」に自分を生み出すことから始まって、徐々にその想像力の翼をひろげることで、より広い世界の中に自分を見出していくことにつながっていきます。

   

それは、常に新しい「自己」を自分が生み出し続けるという、うれしさをともなった営みなのではないでしょうか。そのような生活の場をここでは〈ちいさな社会〉と呼びたいと思います。そして、〈ちいさな社会〉をつくりながら、新たな「自己」を人々との「あいだ」に生み出し続け、愉快に生きる営みは、すでにこの世界のそこかしこで始まっています。〈ちいさな社会〉を愉快に生きる人々が生まれているのです。

   

ウィズ・コロナの時代に入って、飲食業への自粛協力要請が解かれました。しかし、赤ちょうちんに夜の人出は戻ってきていないといいます。店主の話では、「夜8時頃になると、さーっと潮が引くみたいに、皆さん帰ってしまわれます」とのことです。コロナ禍で、仕事のつきあいで一杯もいいけれど、家やコミュニティに帰って、家族や親しい人とともに食事をし、お酒を飲むことのうれしさ、楽しさに、人々が改めて気づいた、ということなのではないでしょうか。

    

そして常に新たに生まれ出てくる「自己」を、その親しい人を通して感じとって、うれしくなっているのではないでしょうか。そこにも新たな〈ちいさな社会〉を見ることができます。

    

     

この2年間、私たちは様々な苦悩の中にありながら、新しい存在の在り方を、いえ、本来の私たち自身の在り方を取り戻したのだといえるのかも知れません。

    

これからこの連載では、私自身がかかわった様々な〈ちいさな社会〉の実践を通して、新しい「自己」の在り方を探ってみたいと思います。


     

 

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