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とても可愛らしい絵柄のこちら、懐かしく感じませんか? 子どもの頃に持っていた、あるいは家族が持っていたのを見たことがあるという人も多いのではないでしょうか。1980年代~90年代にかけてこうしたファンシーな雑貨が、子ども向けの土産物として日本中の観光地で売られていました。
山下メロさんはこれを「ファンシー絵みやげ」と命名。はじめは軽い気持ちでコレクションを開始します。ところがいつのまにかその収集が人生をかけた壮大なミッションに。「文化を守りたい」という気持ちが育ってきたのです。
山下さんが平成文化を守るという道を歩みはじめた経緯とそのやる気の変遷について詳しくうかがいました。
山下メロ
平成文化研究家。1981年広島県生まれ。中高時代は埼玉県で過ごす。1980~90年代に観光地で売られていた子ども向け雑貨「ファンシー絵みやげ」の収集を機に、バブル~平成初期の庶民風俗の分析・保存活動を行う。
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――山下さんはいま、どのくらい「ファンシー絵みやげ」をコレクションされているんでしょうか?
約2万種です。日本全国をまわりながら1000万円以上を費やして集めました。
――とても高い熱量で集められたんですね!
はじめから熱量高く取り組んでいたわけではないんです。きっかけは何気ないものでした。もともと80年代のタレントグッズなどを集めるのが趣味だったのですが、2010年頃、偶然フリーマーケットでファンシーなキーホルダーを見つけて、「昔こんなのあったなぁ」と懐かしくなって買ったんです。
そのときは買ってどうするというのは何も考えていません。ただ、当時はアパレルブランドと『魔法の天使クリィミーマミ』(※)のコラボ商品が話題になるなど、80年代がリバイバルする空気があり、「こういうファンシーな土産物も人気が出るんじゃないか」と思ったんですね。古いものに興味を持つ若い人の間でちょっと話題にされるかなと。
※『魔法の天使クリィミーマミ』…1983年~84年まで放送されていたテレビアニメ。
――それで徐々に集めていかれた?
いえ、直接の動機は別にあります。それは、帰ってからそのキーホルダーについてネットで調べようとしたときに「怖さ」を感じたことです。
まず検索する際、どう言葉を入力したらいいのか分からない。名前を知らなかったんですね。しかたなく、「おみやげ」の前に「サンリオっぽい」とか「かわいい」とかを入れて検索してみましたが、それでも全然情報が出てこない。当時ブログやSNSも普及していたのにヒットしなかったんです。
情報がないということはつまり、誰も話題にしていないということです。かつて確かに存在したものなのに人々の記憶から忘れ去られている。このままではきっとこの文化自体が失われてしまうと怖さを感じました。それが継続的に集めていこうという気持ちになったきっかけです。
――キーホルダー1つから文化の存続を意識されたのはすごいです。
そんなに高尚なことを考えていたわけではないんですよ。例えば本やCDであれば、古いものでも価値を見出して買い取る業界があります。再流通する仕組みがあると、その文化は失われないだろうと安心感があるんですね。
それに対し、私が見つけたキーホルダーの分野は注目している会社も人もいないわけです。しかも私自身、子ども時代にたくさん買っていたのに、ものを見るまで忘れていました。古いものに興味をもって収集する趣味がある自分でも忘れていたのだから、世間の人もきっと思い出さないに決まっている。自分が動かなかったら本当に消えてしまうと思いました。
――その後はどんな行動に移されたんですか?
具体的にどうしたらいいのかは分かりませんでした。子どもの頃から何かしらものを集めていたのですが、コレクターとしてコレクションを発信する方法やタイミングを知らなかったんです。1つ見つけただけで発信していいものなのか、数を集めて体系化してからにすべきなのか。
コレクター仲間には「早く公表しろ!」と強く勧められましたが、結局、発信しないでおくことにしました。もし、ものに対して愛情のない人が私を真似て集めて、その後おざなりにするようなことがあれば、やっぱり文化は失われてしまうだろうと思ったんです。だからこっそりゆるゆる集めていきました。
――ゆるゆる?
当初は、自分の見通しが甘かったんです。「フリマに足しげく通っていれば全部集められる」「たぶん2000個ぐらいで収集し終えるだろう」と考えていたんですね。そんなに躍起にならなくても一生かけてゆっくり集めていけばいいやって。
――しかし結果的にたくさんのお金を費やして2万種も集められたわけですよね。「ゆるゆる」が本気になったきっかけが何かあるのですか?
本気になったのは2つのことに気づいたからでした。
1つは入手する機会が減りつつあると気づいたこと。フリマ以外に、旅行に行った際にも土産店で探すようにしていたのですが、20年以上前に流行ったものなのであまり店頭になく、わずかに売っていた店ですら、次に行ったときには閉店していました。店主の高齢化とともに、土産店は廃業が進んでいたんです。急いで店を回らないといけないと焦りが出てきました。それでまず会社をやめるという行動に至ります。
もう1つは民俗学的資料性が高いと気づいたこと。単にかわいいだけじゃなく、80年代やバブル景気ならではのノリやお金のかけ方など、一時代の空気というものがファンシー絵みやげにはつまっていたんです。集めているうちにだんだんと、「きちんと体系化して1つの文化として残さなければならない」と責任感が強まっていきました。
――今日につながる転機は何だったのでしょう?
知人に「80年代に関する本を作るからおみやげのことを書いてくれ」と頼まれたことです。このタイミングでSNSもはじめ、世の中にファンシー絵みやげを収集・調査していることを発信することになりました。
しだいにイベントやラジオ、テレビ出演の機会も増えるように。発信する場が広がると、その分リアクションを目にする機会も増えます。この頃初めて世間のファンシー絵みやげに対する関心の高さを知ることになりました。
ネットでは全然話題にされていなかったのに、現物を見るとみなさん「ああ、こんなのあった!」という反応をされたんです。80~90年代に子ども時代を過ごした人はもちろん、その親世代もかつて子どもに買ってあげたことから覚えていましたし、若い人たちも祖父母の家で見たことがあるなど何かしらファンシー絵みやげにふれていました。
――誰もがファンシー絵みやげを通ってきていたのですね。
そうです。ファンシー絵みやげは誰の記憶にも残っているメジャーな文化だったのです。そう気づくと、この分野を調べまとめ上げていくことは人の役に立つことだと思いました。
ファンシー絵みやげは、誰にも理解されずに日陰で細々と研究するようなものではない。堂々ともっとやっていけばいい。好奇心で取り組んでいたことに、意義を見出せたことでモチベーションがより高まっていきました。
――調査・保護活動をする上で大変なことはありましたか?
基本的には大変なことばかりです。死にそうになったこともあります。
――死にそうに!?
真冬に北海道の帯広にある「幸福駅」に行ったときのことです。駅だから帰りは電車に乗りさえすれば市街地に出られるだろうとよく調べもせず、空港からそのままバスで向かったら、路線はだいぶ前に廃線していて駅舎があるだけでした。
おまけにその日は地吹雪がひどく、目的の土産店も閉まっていた。極寒の何もない雪原にぽつんと突っ立って呆然としましたね。視界が悪くて進むべき方向も分からず、そのまま人に道を尋ねられなかったらどうなっていたことか。
ファンシー絵みやげの収集をはじめるまでは一人旅というものを全然したことがなかったので、最初の頃は不慣れからこうした命の危機に瀕することがありました。
――いろんな地方に行けて楽しいということばかりでもないんですね…。
好きな場所を選んで行っているわけではありませんから。どこに何があるか分からないので、どんな土地であろうがとりあえず行くんです。
――それにしても死ぬような思いをすると「もう二度とやりたくない」という気持ちになりませんか?
ならないです。次回気をつければいいだけですから。失敗するとそれなりに知見が得られます。そこから対策を考えてまた向かえばいいんです。
――どうしてめげずにいられるんでしょう?
いや、道半ばで揺らぐぐらいなら、はじめから会社をやめてまでやろうと思いませんよ(笑)。強い動機で起こしたやる気はそう簡単に折れるものではないでしょう。
それに大変なことを挙げればきりがないです。ファンシー絵みやげは店頭に置いてあることはあまりないので、店の人には倉庫などを探してもらわないといけません。その交渉も大変なんですよ。
――煙たがられることもありますか?
もちろんあります。当たり前ですけどね。何の面識もない人が急に訪ねてきて無茶な要求をするわけですから。「帰って」と邪見にされることや、いくら話しかけても無視されることもありました。
いかに相手にこちらの要求をのんでもらうかということには毎回苦心します。それでもし怒られても、「じゃあ次は話し方を変えよう」など改善策を考えればいいだけ。案外「残っているものが役立つなら嬉しい。わざわざ訪ねてくれてありがとう」と喜んでいただけることもあるので、ぶつかっていかないことには何もはじまらないですね。
――2018年にはファンシー絵みやげを収集・研究した集大成として『ファンシー絵みやげ大百科』(イースト・プレス)を出版されました。このときはやはり、長年の労苦が実を結んだという実感を得ましたか?
そうですね。出版社から本にしたいと声をかけていただけたことは、客観的に活動を評価してもらえたということですから嬉しく思いました。次へ向かうきっかけにもなりましたね。
ファンシー絵みやげという誰も話題にしていなかったものに注目し、その価値を世の中に認知してもらうまでに引き上げたことで、もっと他のものにも光を当てたいと思いました。いまは、あまり注目されていない平成の文化を体系化し、「平成レトロ」として発信していくことに注力しています。
――だから山下さんは「ファンシー絵みやげ研究家」ではなく「平成文化研究家」なのですね。具体的に調査・保護を進めているものはありますか?
CD保護マットと携帯電話の光るアンテナです。
――それぞれどんなもので、どんなところがおもしろいのでしょうか?
CD保護マットは、言葉通りCDを保護するためのマットです。町のショップで、CDを買った人に配られていたものでした。マットには店名やロゴが入っています。
地域性があるので、集めていてもファンシー絵みやげのように誰もが、「(このお店)見たことある!」とはならないんですが、その地域や店を知る人が見れば懐かしく感じるものです。
いろんな地域のものを集めて整理すればきっとマップができあがって、人々の記憶の扉を開くトリガーになるのではないかと興味を持っています。
携帯電話の光るアンテナは、着信時に光って知らせるもので、通話中に派手な雰囲気を作れるアイテムです。
90年代の終わりごろに一時的に流行ったものなんですが、とても数が多いんです。しかも短い間での技術革新がめざましい。ただ光るだけだったのが、ぐるぐる回って光ったり、光る色が変化したり。
歴史に一瞬登場しただけのものなのに、意外と奥行きや広がりがあるということを興味深く感じています。
――どちらも平成の時代を表す貴重なものですね。これから掘り起こされていくものも楽しみにしています。ありがとうございました!
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この記事を編集した人
ほんのまともみ
やる気ラボライター。様々な活躍をする人の「物語」や哲学を書き起こすことにやりがいを感じながら励みます。JPIC読書アドバイザー27期。