新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
子育て・教育
2021.08.11
この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
「あの、ちょっとすみません。」
緊急事態宣言が解除され、まん延防止等重点措置が取られているとはいえ、人の流れが増えてきました。帰宅ラッシュのなか、新幹線改札口に急いでいるときに、後ろから声をかけられました。
振り向くと、まだおろしたてといった感じで、板についていない背広姿の純朴そうな青年が立っています。
「どうかしましたか?」
新入社員で、乗り換えなどで迷ったのかな、と思い、返事をしました。
「はい、私、あの、新人研修で、できるだけ多くの人とお名刺を交換するようにいわれていまして・・・・・・」
「はあ?」
「あの、ですから、新人研修で、お名刺を・・・・・・」
「ああ、やめておいた方がいいですよ。意味ないですから。」
「でも、お名刺を・・・・・・」
「どんな研修か知りませんが、電車の時刻があって急いでいる人をつかまえて、しかもこのラッシュ時に、通行の邪魔になるのに、その上、見ず知らずの、名刺を持っているかどうかもわからない人に名刺交換を、って、いったい何をしたいのですか?」
「あの、ですから、お名刺の交換を・・・・・・」
「だめだめ・・・・・・」
といって、その場を離れました。
その後、気になってネットで調べたら、この研修を行っているのは投資用不動産を扱っている会社で、あちこちでトラブルになっているようでした。新人研修で一人ひとりに100枚名刺を集めさせ、電話のアポを取って、勧誘攻勢をかける手口のようです。
それにしても、この手法、なんとも腑に落ちません。というのも、普通、私たちが名刺を交換するのは、仕事で会った相手先の人で、それなりの信頼関係が前提となっているからです。街頭で突然声をかけられて、名刺を交換して下さい、といわれて、はいそうですか、と応じる人はいないでしょう。自分の名前から勤務先の基本的な情報まで入っているものを、です。それを研修だといって新人にやらせることに、どんな意味があるのでしょうか。
この新人君、気が弱そうでした。このまま何も考えないで、営業成績競争に巻き込まれて、精神を壊さないといいけれど、と心配にもなります。
それにしても、こんな研修をさせていて、この会社、大丈夫なのかと思います。人のことを想像もせず、一方的に要求だけ出して、その成果を競う、そういう会社が顧客から大事にされるとはとても思えません。社員も、上司からいわれるままに、何の疑問も抱かず、歯車として働き続けることが求められているように感じます。
自分の人生はそれでよいのでしょうか。この就職難のご時世、仕事があるだけありがたいと思え、人を騙そうが、何をしようが、成績を上げたもの勝ち、あとは野となれ山となれ、ということなのでしょうか。
それとも、高齢者を狙った特殊詐欺(オレオレ詐欺)の受け子のように、愚かな大衆にカネを使わせることは、本人にとってもよいことだし、社会にとってもためになるのだと吹き込まれているのでしょうか。
乗車した新幹線の車内でこんなことを考えていて、ふと、あることを思い出しました。
もうずいぶん前、ずいぶんどころか30年以上も前ですが、ファミリーレストランのチェーン店で、アルバイトの従業員に「◯◯へ、ようこそ」とマニュアル通りの対応をさせていて、ロボットじゃあるまいしと思ったこと、その心のこもっていない掛け声のような挨拶を居心地の悪さを感じながら聞いていたこと、そしてそこにたまたま新たに入った年配のアルバイトがいたりして、「いらっしゃい!」と声をかけてくれると、何となくホッとした気持ちになったこと、をです。
多様性が大事だ、お互いに認めあうことが大切だ、と叫ばれてすでに久しいのですが、社会はそうではなくて、どんどんマニュアル化していき、人がどんどん型にはめられ、ものを考えないようにされてしまっているようで、やりきれなくなります。
まるで、ジョージ・リッツァさんの『マクドナルド化する社会』(正岡寛司監訳、早稲田大学出版会)のさらに先を行くような状況なのではないか、と思えてなりません。この本の翻訳が出たのが世紀末です。それからもう20年以上にもなるのに、状況は一層深刻化しているように思います。
▶ジョージ・リッツァ、正岡寛司監訳『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版会)
リッツァさんのいう「マクドナルド化」とは、徹底したマニュアル化によって、人々の労働を標準化して、この世界を支えている人々の思考や行動、さらには好き嫌いや社会システムそのものまでもを画一化する様式が席巻する社会になることをいいます。
私が、いまの状況をそれがさらに進んだものだと感じるのは、単にマニュアル化するということを超えて、人々が、指示されたことを考えようともしなくなっているし、そこに自分が相対している他者が存在しなくなっている、つまり他者に対する想像力すら働かせることもなく、自分がいまやっていることの先まで考えようとしなくなっていると受け止めざるを得ない状況に、社会があるからです。
それはまた、大量生産の製造業のアッセンブリーラインで働く労働者のあり方、これを決めている考え方をフォーディズムといいますが、そういう働き方の延長だといえるかも知れません。いまやフォーディズムが製造業だけではなくて、社会全体に、しかも人を扱うサービス業にまで拡大され、人と人とのあり方にまで実装されてきているのではないでしょうか。
それは俗ないい方をすれば、すべての人々が人間性を失い、誰かと一緒にこの社会をつくり、この社会に誰かと一緒に生きているという感覚を失い、孤立してしまうこと、いいかえれば、自分がこの社会に位置づいているという感覚を失い、生を実感できなくなることと同じことです。
それはもう、マニュアル化とか規格化とかそういうことを超えて、マニュアルに依存するということさえも、さらに無気力であることすら超えてしまって、なんだか考えることを、つまり自分であることを諦めてしまうこと、そういうことなのではないでしょうか。しかも、それを仕組みとして社会実装することで、人々に自分が自分であることを諦めるように、潜在的に強要する社会がやってきている、そう感じるのです。
そう思いをめぐらせていて、私が学生の頃を思い出しました。もう40年近くも前のこと、1980年代のことです。
当時、私の出身地・愛知県は、西の愛知、東の千葉と呼ばれるほど、高校の「管理教育」で有名でした。一部の公立進学校を除いて、徹底した上意下達かつ軍隊式の生徒管理で、ものを考えない子どもをつくろうとしていると、国会でも取り上げられるほど、問題視されていました。
その立役者の一人であった、当時のある高校校長が、退職後、管理教育の成果をひっさげて、請われて、ある私立高校の校長となったのです。その高校は、いわゆる指導困難校でした。子どもたちは荒れてしまっていて、この高校の建て直しのために、この校長の手腕が期待されたのです。
しかし、結果はどうだったのか。私が大学の教員になってから、ご本人から直接聞いた言葉です。
「私が県立高校で進めた管理高校は、この学校のバカな子どもたちには通用しないのです。そこで、痛感したのです。管理主義、マニュアルの徹底のためには、少なくとも県立高校に受かるくらいの学力がなければならないということを。私学の底辺校の子どもたちは、管理しようにも、管理できない、人間社会に生きていないのですから。で、どうしたのかといいますと、徹底的に服従させるのです。何も考えなくていい、服従あるのみ。彼らに、反抗しても無駄だと思わせる、つまり諦めさせるのです。管理教育をさらに厳しくしたような管理が、必要なのです。そうしないと、学校という組織は保てません。」
教師を自任する人がよくもまあこんないい方ができるものだ、とその時は呆れたことを覚えていますが、いまの社会とくに一部の企業のあり方はこれにそっくりになってきているのではないでしょうか。
そして私がそれを怖いと思うのは、そのような、ものを考えない服従によって保たれる組織は、表面的にはとてもきれいに見えても、その組織の根っこのところで組織を維持しようとする力を失っているからです。
その組織を維持するためには、外部からの膨大なエネルギーを必要とするのですが、そのエネルギー供給が少しでも滞ると、その組織は一気に瓦解してしまいます。
そこで犠牲になるのは、考える力を奪われた子どもたちです。その後、管理教育が何を生み出したのか、すでに皆さんご存じの通りです。不登校ではありません。学校には来ているのに、一日中机に突っ伏しているだけの、生きる気力すら持っていないかのような多くの子どもたちを生み出してしまいました。
このことは、組織のあり方も含めて、大きくは過去の軍国主義国家や共産主義国家、さらにはその暴力組織としての軍隊などにその例を見ることができるのではないでしょうか。そしてそれらの組織解体後に人々を襲ったアパシー状態にも、それを見ることができます。
こう考えてきて、ハッとしたのです。いまの日本社会のあり方は軍国主義国家や共産主義国家さらには軍隊とは異なるけれども、この社会の消費主義と人々のお客様扱いは、実はそれと同じ構造を持ってしまっているのではないかと思い当たるのです。
強権で外部からエネルギーを供給して組織をまとめ上げているわけではありません。しかし、人々をお客様扱いし、消費者として持ち上げることで、実は強い中毒性とでもいえるような性質を持った、依存症のような社会をつくりだしてしまっている。
そこでは、人々はものを考えるのではなく、出来合いのサービスを購入することで、サービス提供者に依存つまり従属することになってしまっている。しかもそれは、心地よければよいほど、満足すればするほど、中毒性を強め、依存傾向を強化するようになる。それが、この社会を形式的にはなんとか維持している。
しかしそのサービスが滞ったり、気に入らなくなったりした途端に、お客様には禁断症状が出て、自分だけを大事にしろと騒ぎはじめて、社会そのものが動揺する。だからこそ常にお客様を中毒にし続けるようなサービスを提供し続けなければならない。
このサービス提供による従属の基本的な構造は、お客様は孤立しているということです。誰かと共に生きているという感覚は持てず、サービスに依存しているのです。
このサービスを提供して、社会を維持するためのエネルギーたるや大変なものですし、それだからこそ、供給側の規格化・マニュアル化によってそれを効率化しようとするのではないでしょうか。
いまや、消費主義というソフトな権力が、ものを考えない消費者に対して、先回りしつつ、サービスを提供して、中毒にし、依存させることで、この社会を維持している。しかも、いまやすべての人々がサービスの提供者であり、受け手であるという、フラットな関係の中で、誰もが自分だけを大事にしろ、自分だけを満足させろと、お互いに主張しあっている。しかしその主張を受け止めてくれる宛先はめまぐるしく変わり、誰も満足できない中毒症状に陥っている。こう見えます。
しかも、この消費主義の社会は、過去の強権社会とは異なって、より巧妙な仕掛けを持っています。誰もが消費者になり、自分だけを大事にしろ、自分だけを満足させろと虚空に叫ぶような状況になっているのに、それは自己責任論と裏腹な関係にあるのです。つまり、あなただけのサービスを提供します。でも、それで中毒になったり、満足できなかったりしても、それはそれを購入したお客様の自己責任ですよ、というメッセージが発せられていて、失敗は許されない、失敗しても誰も助けてはくれないという心理状態が人々の間で共有されているのです。
そういう社会では、人々は認めあおうとか、受け入れあおうとか、助けあおうとか、そんなことはしなくなってしまい、孤立してしまいます。自分はただ、そこにいるだけであって、他人も自分とはまったくかかわりのない、人ではなくて、風景の一部であるモノとしてあるだけ、そういう社会が生まれるのです。
不満を訴える人々は、それでもお客様として、自分を大切にしろとクレームをつけますが、そのクレームも宛名を失って、真空に虚しく吸い込まれていってしまいます。
ただ、この社会には、クレームを受け止めざるを得ない制度的な弱い部分があります。行政(公務員)ですし、お客様のためにサービスを提供している人々です。そこにクレームが集中することで、行政を含めた組織は疲弊しますし、その職員も自分がお客様であるときには他にクレームをつける消費者なのですから、社会全体が疲弊していってしまいます。
そして、この社会では、誰もが消費者として自己主張することで、結果的に、互いに潰しあう下方平準化が起こり、社会のイノベーションは起こらなくなってしまいます。これを最近の経営学などでは「ブラック均衡」と呼んでいると聞きました。
こうなれば、誰もが不満を抱き、自分だけを大事にしろと訴えながらも、誰もがその不満を自分で引き取らざるを得なくなり、サービスを購入した責任は自分でとることになります。
しかも最近では用意周到に、このサービスを買えばこういう満足が得られるようになっているのに、それが得られないのは、買ったあなたがそこから満足を引き出せなかったからだ、サービスそのものには何の瑕疵もありません、という予め自己責任を織り込んだメッセージが発せられているのではないでしょうか。
全能の神であるお客様は、自分で購入したという行動に対しても全能でなければならないのです。この自己責任から孤立と諦めまでは半歩ほどの距離もありません。
ある非常勤先の大学で授業をしていたときです。学部長からメッセージが回ってきました。どういう内容なのかといいますと・・・・・・。
「コロナ禍の緊急事態宣言が解除になったので、大学も対面授業を増やしている。しかし、不安に思う学生もいるだろうし、実家に帰っている学生もいるだろうから、担当教員の同意を得て、対面とオンラインでのハイブリッド授業を開始した。だが、学生の受講態度に問題がある。大学に来ているのに、空き教室に入ったり、そこで学内のWiFiに接続して、オンライン受講をし、友だちとしゃべったり、飲み物を飲んだりしている。このような不真面目な態度は看過できない。大学に出てきているのなら、開講されている教室に行って、対面で授業を受けなければならない。それが学生の皆さんの将来を守ることにもなる。」
こういう内容でした。私にはこの学部長のいっていることがすぐに理解できませんでした。なんだか、学生が授業の内容を受け止めることよりも、授業に出るという形式が大事だといっているようにしか思えないのです。
しかも、自宅や実家でのオンライン受講を認めておきながら、空き教室にいてオンラインで受講することは不真面目だ、というのも、なぜなのか、よくわかりません。そこで、おしゃべりをし、お茶を飲んでいることが不真面目なのでしょうか。しかし、授業が開講されている教室に来て、ぺちゃくちゃ私語をしたり、弁当を食べたりして、周囲に迷惑をかけるくらいなら、空き教室にいてくれた方が、他の受講生にとってもよい話なのではないでしょうか。
また、私語をしたり、お茶を飲んだりすることが、授業内容を理解していないということでもないと思います。もっといえば、どのように授業を受け、どのように理解するのかは、それこそ学生たちの自己責任ではないかと思ったりもします。
しかし、そうではないということは、この大学では、学生たちが大学が考えている形式にもとづいて授業を受けることが強要されているのか、または授業というサービスを提供する側が、そのサービスが予定されたパフォーマンスを発揮するためには、指定された受講の態度でなければならない、つまり消費者に対してどのようにサービスを購入し、使うのかを決めている、さらにはそのように使わないと効果がないようなサービスを提供しているということになってしまうように思えます。
それはまた、教育とか学問とかという論理とは異なるモノをこの大学という場所が提供しているのだということを自ら告白してしまっている、このように思われてならないのです。つまり、大切なものは何かという知的な探究を放棄して、単なる授業という形式的なサービスの提供機関であること、つまり自ら大学であることを否定してしまっているに等しいのではないかということです。
しかもそれが学生の将来を守ることになる、とはどういうことなのでしょうか?
もしかして、そのサービスを購入して、大学が指定したとおりに受講すると、大学が示したような効果があって、社会が求めている人材として学生たちは育成されることになるので、就職にとっても有利に働く。しかし、大学が指定した受講態度でいないとその効果が薄れて、社会が求めているような人材になれない、というようなことをいっているのでしょうか。
学生とは、一体、なんなのでしょうか。というよりも、今年社会から求められているとされる人材は、彼らが卒業する4年後とか3年後の社会でも求められている人材なのでしょうか。そういう人材は、本当に社会から求められていて、社会の役に立つのでしょうか。
大学とは社会の人材需要を的確に把握できるような力を持っていて、学生たちは人材として育成されるような商品なのでしょうか。そもそもそれが教育なのでしょうか。
なんだか、もう大昔といってもよいほど前に主張されたタブラ・ラサ、つまり人とくに子どもは白紙と同じで、外からの働きかけによって、その白い紙にどのような絵を描くことも、つまりどのような人間にでもすることができるという、いまやすでに否定されている、人間の操作可能性を信奉している宗教団体のようです。
どうにも理解できません。
そこで、私の授業を取っている学生たちに聞いてみたのです。この学部長のメッセージをどう受け止めたのか、と。すると、受講生たちは異口同音に、こういうのです。やっぱりね、と思った。先生、もう、どうでもいいです、と。
どうでもいいって、どういうことなの? と聞きますと、もう、諦めていますから、という返事。これは聞き捨てならないと思い、諦めているって、なにを? と聞き返したのです。
すると彼らは次のようなことを語りはじめるのです。
「何を諦めているのかって、大学を、そして、社会を、です。それは、自分自身を、ということかも知れません。何をしようとしても、何も変わらないし、できないからです。」
「私たちの大学は、対外的には学生の面倒見のよい大学だと思われていると思います。大学もそう宣伝していますし、私たちも入学前にはそう受け止めていました。それだけ面倒見もよくて、それなりにブランド力もあって、就職も悪くない、それなら進学したいと思って、この大学を志望しました。でも、入学して、えっ、と思ったのです。」
「面倒見がいい、というのはこういうことなのか、と。私たちは、「学生さん」と呼ばれて、お客様扱いされています。先生方も、私たちを男女を問わず「さん」づけで呼び、丁寧語を使って話をされます。意見を求められるときも、「◯◯さんは、どうお考えですか」というような問いかけられ方をします。最初はとても大事にされている感じがしたのです。でも、そうではなかった。」
「授業も各学期15回きちんとあって、毎回の出席が求められ、先生が一人ひとりの出席を確認するのではなくて、出席カードと授業評価カードが一体となったものを提出することで、自動的にカウントされることになっています。それで、欠席すると、事務からどうしたのか、体調でも悪いのか、欠席するのであれば事前に理由を連絡するようにとの通知が来ます。先生の授業についても、毎回、得るものがあったかどうか、シラバス通り授業を行ったか、等について評価することになっています。」
「その上、授業は、私たちはほとんど選択必修の授業を受けている感じで、自由に自分の興味に従って授業を選択することができないほど、目一杯入っています。そして毎回の出席確認と授業評価です。」
「初めのうちは、すごいなあ、と思っていただけだったのですが、だんだんと息苦しくなってきて、大学生活ってこんなことではないのではないか、と思い始めたのです。時間はもっと自由になって、キャンパスで友だちと談笑したり、授業時間以外では、部活をやったり、アルバイトをしたり、もっと社会と触れあって、芸術活動や趣味の活動をやったり、就職してからではできないことを力一杯できるのではないか、と考えていたのです。」
「でも、この大学では、そういうことがまったくできないのです。皆さんの将来のために、授業は組まれていて、それは皆さんが社会に出るために、先ずは社会が求める人材として育成されるようにつくられています。ですから、それをきちんと学んで、大学がいうように勉強すれば、皆さんはきちんと社会が求める人材として育成されて、就職できるようになっています。ですから、大学が提供する授業というサービスを受け取って、そのサービスが指定することをそのままやっていれば、皆さんは大学が育成した優れた人材として社会に送り出されることになっています。それに疑問を感じることは愚かなことですし、自分の人生を捨てることになります。こういうメッセージが私たちに伝えられているのです。」
「それでも、私たちも先輩たちも、なんだか変だし、もっと自由に自分の学びたいことを学びたいと考えました。それで、大学宛に、有志の連名で、それぞれの関心にもとづいて授業を選択できるように、選択科目を増やして欲しいこと、さらに必修の授業や出席管理でがんじがらめにするのではなくて、もっと自由な時間を保障して欲しいことを書いた要望書を提出したのです。」
「そうしたら、大学から名前を書いた学生たちに個別にメールで返事が来たのです。どういう内容だったのかというと、皆さんはこの大学で学びたくて進学してきたと、大学は受け止めています。ですから、その思いに応えるために、大学側も努力しています。この大学は、学生の皆さんを大切に考えていて、皆さんの夢を叶えられるように、授業をつくり、施設設備を整備して、良好な学習環境を整えています。ですから、皆さんは、大学が提供する授業を受けていれば、自然と自分の夢が叶う人材として育成されるようになっています。それに対して、要望書のような意見が出されるというのは、大学としては極めて遺憾です。なぜなら、大学の思いが皆さんに受け止められていないということですし、皆さんが、この大学でやりたいことができないと感じているということは、皆さんが大学が提供している授業をきちんと学んでいないということだからです。」
「授業をきちんと受けて、学んでいれば、皆さんが希望している将来の進路が実現するようになっているのに、それができず、不満を持ち、大学に自分たちの不満が解消するように授業を変えろというのは、自分でこの大学を選んだ責任を放棄することに等しいことです。大学は、皆さんが自分で選んだ道をすぐに諦めて、その責任を他人に転嫁するような人材にはなって欲しくありません。それは、社会人として、あるまじき態度だと考えています。ですから、皆さんの要望は要望としてお聞きしますが、そのようなことは考えず、大学を信じて、大学が提供する授業を一生懸命に学び、社会が求める人材となって下さることを強く期待します。」
「こういうことだったのです。あ〜あ、という感じでした。私たちは、この大学の対外的な宣伝や就職実績という広告に騙されていたのだとその時に気づいたのです。でも、もう手遅れなのです。騙されたお前が悪い、そういわれているように感じました。それでそのようにいうと、大学はきっとこういうのだと思います。そんなことはありません。皆さんは大学が提供している授業のプログラム通りに疑問を抱かず学びさえすれば、社会が求めている人材として、社会に巣立つことができるのですから、大学に騙されたと思うのは、自分が大学が提供するプログラム通りに学んでいないからで、きちんと学んで、その効果が出てくれば、そんなことは思わなくなります。ですから、大学を信じて、大学が提供するプログラム通りに学び続けて、そのプログラムがもたらす効果を受け取ればいいのです。余計なことは考えず、大学を信じなさい。そうすれば、道は開けます。」
「お客様は神様ですといわれているのですが、それは、お客様は神様です、神様のお求めの通りの商品を私たちは提供しています、ですから神様が満足されることは間違いありません、といわれているのと同じなのです。もし、満足できないのでしたら、それは神様が私たちの提供する商品をまだ十分にお使いになっていないからであって、それは私たちの好意を無にすることでもあります。ですからどうぞ、神様、私たちを信じて、私たちの提供する商品を十分にご堪能下さい。なぜなら、私たちは神様のご要望通りの商品を提供しているのですから、満足しないわけがないからです。それでも満足できないのは、商品を使いこなしていないからです。お客様が悪いのです。」
「これって、いつの間にか神様が逆転してしまっているのと同じではないですか。私たちは自分を神様だと思い込まされているだけであって、本当は、大学という神様を信じなさい、信じて疑わず、いわれた通りにしていれば、大学という神様が私たちの願いを叶えてくれる、そういわれているような気分になります。もう、どこかの出来の悪い宗教と同じです。」
「結局、何をいっても全部自分に還ってきてしまう。もう、何をいってもダメなのだと思います。宗教なのですから、絶対に変わらない。だから、諦めています。もう、いいや、って。自分で選んだことは確かなのだし、退学して他の大学を再受験するのも、親に迷惑がかかるし、もし転学したとしても、その大学も同じようなものだろうし、だったら、もう抵抗することはやめて、もう何も考えないで、与えられたものを黙々とこなしていた方がいいかな、って、そう思うのです。」
「ですから、無気力だとか、そういうことではないのです。諦めてしまった、そういうことです。」
ここまで自分のことを考えて、意見をいえ、行動を取ることができる学生って、すごいなあ、でもそれがこの大学の経営方針によって生み出されているのだとしたら、すごい皮肉だなあ、と思いつつ、彼らの痛切な訴えを聞いていました。
それにしても、この大学の自信はどこから来るのでしょうか。「信じる者は救われる」「不満や不安を抱くのは教義が身についていないからだ」「教義の示すとおり、何も考えず、何の不安も抱かず、ただひたすらに従順に励めば、必ずや救済は訪れる」・・・・・・「よらしむべし、知らしむべからず」というコトバが頭をよぎります。
どこかの出来の悪い新興宗教ならいざ知らず、こんなこと、とても私には学生にいえません。自分の子どもにだって、そんなことはいえません。私がいうとおりに生きていれば、人生間違わない、などとは。こんなに変化の激しい時代には、彼ら自身が自分の人生を切り拓くための様々な力をつけなければなりませんから、一つの考え方でつくられた信念のようなプログラムほど危ないものはないからです。いえ、そうではなくても、人を教化し、こちらの思うように動かすことなど、ましてや育成することなど、もともとできないからです。あたかも操作可能なものとして人を扱うことなど、できるはずもないのです。
それでも、この裏返しとして、このような組織を維持するためのエネルギーは相当なものだと思わざるを得ません。学生たちに上記のような授業を提供し、学生たちを管理するためには、教員たちがそれだけの授業を準備し、日々、業務に終われることになります。
私は非常勤講師ですから、そこまで厳しく管理されていませんが、授業のシラバスでも、どのようなことをどのように教え、その授業を受けるとどんな効果があるのか、どんな評価をするのかを、15回分書かなければなりません。そして毎回学生たちから、シラバス通り授業はやられているか、その授業に対して教員はきちんと準備してきたか、教員の授業に対する熱意を感じることはできたか、学生を尊重して、言葉遣いは丁寧であったか、等を評価されるのです。
管理する側も管理される、つまり先のサービス業と同じで、教員もマニュアル化されてしまうのです。とてもストレスフルなのです。先生方も疲弊しているのではないでしょうか。
私などは毎年シラバスを書くのが面倒なので、前年に行った授業のシラバスをコピペして出していました(ということは、初年度につくったいい加減なシラバスをずーっと使っていたことになります)。話す内容は授業の進み具合や学生たちの反応で変わっていってしまうのですし、シラバス通り寸分違わぬ授業なんてつまらないものの極致なので、バカらしいと考えていたからです。
それよりも何よりも、新しい研究の成果は刻々と出るのですから、それを反映させることも授業としては必要ですし、授業をやっている学期の間にでも、新しいことを加えた方がよいと判断すれば、授業内容を組み換えることもあるのですから、前もって、しかも数ヶ月も前に授業で話すことを事細かに決めることなど、できるわけがありません。シラバス通り行われている授業は、教員の怠慢の表れ以外の何ものでもないと考えています。それで、ある意味、シラバスをつくっています、というポーズを取るために、そうしてきたのです。
そうしましたらあるとき学部長からお呼びかかかって、この不真面目なシラバスはなんだ、と叱られたことがあります。そこで、大学の授業とは何か、学生たちの自由な発想や反応を許し、教員が自由に組み換えることのできる余白がなければ成立しないということを話したのですが、どうしてもこの授業を受けるとどういう効果があるのか書け、そうしないと学生が私の授業を評価できない、といいだすのです。
それでしょうがないので、「この授業を受けると、学部長がいうように管理することがバカらしく思えるようになると同時に、学ぶことがおもしろくなる」と書いて提出しました。喧嘩を売るつもりはありませんが、なんだかなあ、と思ったのです。
すると、事務長から連絡があったのです。あら〜、非常勤の委嘱は取り消しなのかなあ、と思っていたら、「先生のおっしゃるとおりです! 私も子どもが他の大学に通っていますが、本当にそう思います。私たちが学生の頃の大学はもっと自由でした。がんばってください」とのことでした。ああ、まだこういう健全な思考をする人がいるのだなあ、と受け止めた反面、そんなことを外部の非常勤講師にいわれてもなあ、と思ったことも確かなのです。組織内の人間こそがそれを変えなくて、誰が変えるのでしょうか。
上記のような学生たちの訴えを聞いていて、お客様って一体何なのだろうかと考え込まざるを得ませんでした。その時、彼らの言葉にハッとしたのです。
「先生、先生はこの授業で僕たちに語りかけるときに、◯◯君は、どう思う? これって、どういうことなんだろう? っていういい方をしますよね。この大学の先生とは違って、普通に親しく語りかけてくれますよね。それ、驚いたのですが、うれしかったです。」
「どうして?」
「ほら、どうして、って問いかけをしてくれますよね。それって、本当に僕たちのことを受け止めて、尊重してくれていると感じるんです。でも、この大学の先生たちは、僕たちが意見をいったりすると、そのお考えはすばらしいですね、そうお考えなのですね、と応じるのです。お客様だから、僕たちが。でも、それって突き放されているっていうのか、もう最初から返事を期待されていないって感じるのです。」
「感情労働」、この時、頭に浮かんできた言葉です。ああ、大学の教員もすでに感情労働者になってしまっているのか、と少し驚いたのです。
感情労働とは、肉体労働や精神労働(頭脳労働)とは異なるいわば第三の労働のことで、いまの日本社会のようなサービス業中心の社会で、顧客をある精神状態に導くために、働く者の感情が労働の不可欠な一部となっていて、適切/不適切な感情がその労働の内部でルール化されている働き方のことをいいます。そこでは常に感情が誘発されたり、抑制されたり、さらには麻痺や鈍化させられたり、緊張したり、忍耐が要求されたり、と働く人は精神的にかなりストレスフルな状態におかれることになります。
たとえば、レストランのウエイトレスが客の機嫌を損なわないようにマニュアル化された言葉を使い、客の暴言にも耐え、にこやかに応対するというのは、感情労働の一つのあり方です。「スマイル0円」というどこかのハンバーガーチェーンがいつぞや訴えていたキャッチフレーズがそのことを象徴しています。
いまやこの感情労働は、社会の至る所に広がっている印象があります。飲食を中心としたサービス業だけでなく、たとえば介護や医療の現場でも患者を「患者様」と呼び、お客様扱いしていますし、行政の窓口でも、市民や区民を「お客様」と呼ぶようになっています。企業の営業マンが顧客への対応方法を学ぶのも、この感情労働の基本的な考え方に沿っています。そして、いまや大学の教員までもが、感情労働者の仲間入りなのか、と少し暗澹たる気持ちになったのも確かです。
余談ですが、市民は行政に自分をお客様扱いするサービスを提供させるために税金を払っているわけではありません。それなら、なぜ納税が義務なのか、説明できなくなります。行政がサービス業であるのなら、私たちは納税の義務ではなく、サービスを買う権利があるのですから、必要なサービスメニューを選んで、それを買えばすむはずです。それが、そうではなくて、義務になっているのは、私たちがこの社会を集団として生き延びるために、社会契約を結んでいるという前提で、社会がつくられているからです。
ですから、私たちは自分で望んで生まれたのではないこの国で、この国の国籍を持った両親から生まれれば、自分がくれといったのではない国籍が与えられることになっているのです。出生地主義を取っている国では、両親の国籍にかかわらず、その国の領土内で生まれれば、その国の国民として扱われます。詳しいことは述べませんが、その集団を維持するためにこそ、税金を支払っているのです。
いわば、税金を支払うとはメンバーシップを持っている、つまり社会を他のメンバーと一緒になってつくり、維持することが課せられている主役なのだということなのです。本来は、お客様とはまったく異なる存在なのです。
そしてここに、彼らがいったお客様扱いだと、尊重されていると感じられない、という言葉が重なるのです。
本来、感情労働で、顧客対応がマニュアル化して、適切/不適切な感情がルール化されて、明確になっているのは、そしてそれは昨今の企業のコンプライアンスによる白/黒の明確な切り分けとかかわっているのですが、そのような基準化が進められるのは、基本的には顧客の感情を害さないため、顧客を尊重しているということを示して、顧客の自尊心をくすぐり、顧客をサービス提供者が求める精神状態に持っていく、つまり気持ちよくさせるためのものです。
しかし、学生たちが指摘しているのは、そして私がたとえば先に記したように、ファミレスのチェーン店での紋切り型の対応に違和感を感じ、そこではノイズであるはずの不規則な挨拶にホッとしたように、このようなマニュアル化された感情コントロールでは、顧客は尊重されているとは感じられず、却って感情を害すことになっているのではないか、ということなのです。
このことは、尊重されるという関係が、何とかかわりを持っているのかを示しています。なぜお客様扱いされると、尊重されているとは感じられずに、感情を害してしまうのか。それは、丁寧語や尊敬語は、相手との距離を取るための言葉でもあることとかかわっています。いわば敬遠するための言葉として、丁寧語や尊敬語があるともいえるのです。
そうしますと、感情労働では、感情をコントロールして、顧客をいい気持ちにさせるために均質化され、マニュアル化された言葉を使い、顧客をそれこそお客様扱いするのですが、顧客はお客様扱いされればされるほど、相手と疎遠な関係に一方的に入れられてしまい、相手に親しみを感じることもなく、さらには自分が馬鹿にされていると感じてしまって、無理難題を押しつけ、クレームをつけ、さらに激高するようになる、ということなのではないでしょうか。
このことを考えていて、ふと、ある病院での経験を思い出しました。
私の知人が医師を務めていた病院ですが、そこでは患者からの医師・看護師への暴言・暴力が後を絶たず、困惑していました。挙げ句には、治療代の自動支払機まで、患者が蹴ったり叩いたりして壊される事態になっていました。
困り果てた病院は、地元の警察と連携して、暴力対策協議会をつくり、「暴言・暴力お断り—医師・看護師・職員への暴言・暴力は犯罪です。見つけ次第、警察に通報します」とかかれたポスターを院内のあちこちに貼り出すことにもなっていました。
「いまの患者は消費者になってしまって、カネを払ってるんだから、病気を治せよ、といってくるんだけど、自分で治そうとしない病気は治らないんだよ。医師や看護師はその手伝いをするだけなんだから。そういうことをいくら説明しても、オレがカネ払ってるんだから、オレのいうことを聞いて、早く治せといって、殴りかかってくる患者が多くなってて、みんな疲れ切ってるんだよ」
とは、知人の医師の言葉です。「なんで、こんなになっちゃったの?」と聞きますと、「よくわからない」というのです。
私からは、「それって、これからの病院経営は患者様第一だから、といって、患者のことを患者様と呼び始めて、個人情報保護だからって、個人名を呼ばずに、◯◯番の患者様、なんていい始めた頃からじゃないの?」と聞き返しましたら、「そうかもしれない」というのです。
そこで、「それをやめて、患者さんと呼び、名前で◯◯さんと声がけすることに戻したらどうなの?」と軽い気持ちで話をしたのです。
一ヶ月後くらいに所用があって、その病院に行きましたら、「暴言・暴力お断り」のポスターがなくなっていました。
「どうしたの?」と知人の医師に聞くと、「いやあ、最近、患者からの暴言や暴力がほとんどなくなったんだ。お前が言ったように、声がけの仕方を変えてみただけなんだ」というのです。
「ほお、どういうこと?」と聞くと、「最近、先生たちの声がけが変わって、親しい感じがする、って患者からいわれたんだよ。言葉って怖いねえ」というのです。
こういうことだったのです。
顧客の感情を害さず、気持ちよくなってもらうためによかれと思ってはじめたお客様扱いが、却って関係を疎遠なものとしてしまい、意思疎通を難しくしただけでなく、顧客の気持ちを逆撫でし、その結果、顧客と提供者との非対称な関係(つまり上下の関係)だけが迫り出してきて、弱い立場の提供者を顧客が抑圧するという関係になってしまっていたのです。
尊重するとは、お客様扱いするということではなくて、受け入れ、相手のことを慮ることで生まれてくる自然な感情なのだといえるのではないでしょうか。
巧言令色鮮矣(すくなし)仁
慇懃無礼
とはよくいったものです。
そうだとすると、学生たちは、お客様扱いされて、まず教員と疎遠な関係となって、突き放された感じを持ってしまい、さらに授業をサービスとして購入している扱いをされて、それに不満をいうと、サービスを十分に利用していないからそうなる、責任は自分にあると、慇懃な言葉で突き放されてしまうという、二重の突き放しの中におかれていることになります。こうなってしまうと、もう、諦めることしか残されていないのかも知れません。
そしてその諦めの中で、与えられたプログラムを指示されたとおりにこなすことで身につく能力とは何かといったら、ものを考えずに、与えられた指示を従順にこなしていくこと、つまりフォーディズムが全社会化された状況への従属です。それはもう、自発的従属とさえもいえない従属なのではないでしょうか。ものを考えなくなっているのですから、自発的であるとはいえないのです。
そこで、この状況に疑問を抱くことほど危険なことはありません。自分ではどうしようもない二重の突き放しの関係の中におかれていて、抵抗してもどうしようもない以上、それに違和感を感じてしまったら、あとはもう自分の精神を病むことの他に道は残されていないからです。
こうして、彼らはこの社会に居場所がない、自分がいる意味がわからないといって、社会から退却していってしまいます。それが、「諦め」という言葉と心性として現れているのです。そして、この状況は、コロナ禍で一層ひどくなっているのではないでしょうか。
悲観的な話になってしまいました。次回も続けて考えたいと思います。
\ 人生100年時代の社会のグランドデザインを描く/
\ 最新情報が届きます! /
牧野先生の記事を、もっと読む
連載:子どもの未来のコンパス
#1 Withコロナがもたらす新しい自由
#2 東日本大震災から学ぶwithコロナの中の自由
#3 Withコロナで迫り出すこの社会の基盤
#4 Withコロナがあぶりだす「みんな」の「気配」
#5 Withコロナが呼び戻す学校動揺の記憶
#6 Withコロナが再び示す「社会の未来」としての学校
#7 Withコロナが暴く学校の慣性力
#8 Withコロナが問う慣性力の構造
#9 Withコロナが暴く社会の底抜け
#10 Withコロナが気づかせる「平成」の不作為
#11 Withコロナが気づかせる生活の激変と氷河期の悪夢
#12 Withコロナが予感させる不穏な未来
#13 Withコロナで気づかされる「ことば」と人の関係
#14 Withコロナで改めて気づく「ことば」と「からだ」の大切さ
#15 Withコロナが問いかける対面授業って何?
#16 Withコロナが仕向ける新しい取り組み
#17 Withコロナが問いかける人をおもんぱかる力の大切さ
#18 Withコロナで垣間見える「お客様」扱いの正体
#19 Withコロナで考えさせられる「諦め」の怖さ
#20 Withコロナ下でのオリパラ開催が突きつけるもの
#21 Withコロナで露呈した「自己」の重みの耐えがたさ
#22 Withコロナであからさまとなった学校の失敗
#23 Withコロナの下で見えてきたかすかな光・1
#24 Withコロナの下で見えてきたかすかな光・1.5
#25 Withコロナの下で見えてきたかすかな光・2
連載:学びを通してだれもが主役になる社会へ
#1 あらゆる人が社会をつくる担い手となり得る
#2 子どもたちは“将来のおとな”から“現在の主役”に変わっていく
#3 子どもの教育をめぐる動き
#4 子どもたちに行政的な措置をとるほど、社会の底に空いてしまう“穴”
#5 子どもたちを見失わないために、社会が「せねばならない」二つのこと
#6 「学び」を通して主役になる
新着コンテンツ