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仕事・働き方
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松田志行(まつだ・しこう)株式会社マツダ自転車工場取締役会長。昭和20年11月23日生まれ。昭和43年、明治大学卒業後、マツダ自転車工場に正式に入社。昭和50年、オーダーメイド自転車の製作を開始。平成7年、日本自転車普及協会主催の第8回ハンドメイドバイシクル展の第1回コンテストで同社の「NEXT-C1」が最優秀賞を受賞したのを皮切りに、国内外のコンテストで多くの賞を受賞。平成15年には東京都優秀技能功労者「東京マイスター」に選出。
――御社の成り立ちについて教えてください。
当社は昭和26年に先代の社長が創業しました。当時の荒川区では自転車は一大産業で、昭和30年代にはセキネや山口、ゼブラをはじめとする300社近い自転車関連企業が区内に軒を連ねていたんです。そのうちの1社として、主に自転車のフレームを作っていたのが先代の時代です。自転車は当時、対米輸出の花形産業だったんです。
――松田さんの自転車との出会いはいつ頃ですか。
工場に併設する場所に自宅があったので、幼いころから父親の仕事は見ていました。当時は子ども心に自転車屋にはなりたくないと思ったものです。
――なぜですか?
夏の暑い盛りに、職人たちは汗だくになって塩をなめながら溶接などの作業をしていました。他にやりたいことがあったわけではないんですが、母親の「息子を自転車屋にはしたくない」という想いもあり、私自身も自転車屋を嫌っていたんですね。
――どうして継ぐことになったんですか?
私の父親は山形県の古口というところの出身で寡黙な職人でした。家出をして東京に出て来て、自転車屋になったと聞いています。仕事に関する話はまったくしない人でした。そんな父親が、高校3年生の頃に私を呼び、「仕事を手伝ってくれないか」と頼んだんです。父親に何かを頼まれたのはそれが初めてのことです。嫌だとは言えませんでした。
ただ大学には行きたかったので、「大学に行きながら家業を手伝う」という条件で手伝うことにしたんです。もっとも、手伝うと言っても配達などをするだけで、一般自転車の職人としての仕事をやったわけではありません。後になってみると、そのことがかえって良かったと思っています。
――当時の業績はどうだったんですか?
私が子どものころは良かったようです。当時は珍しかった白黒テレビがうちにはあり、近所の人がプロレス観戦をしに来ていたものです。
しかし、高校時代には業績は徐々に苦しくなってきたようでした。だから親父に「手伝ってくれ」と言われたんだと思います。関東にはミヤタやブリヂストン、丸石といった一流どころのメーカーがあり、一方では関西方面に廉価な自転車を作るメーカーがたくさんありました。うちはその狭間で商品がだんだん売れなくなってきていたんです。立ち位置が中途半端だったので、このままではダメだと思いました。
――当時はまだ、オーダーメイド自転車を作っていなかったんですね?
はい、オーダーメイド自転車との出会いは偶然から生まれました。ある日、晴海のサイクルショーに行ったんです。そこで人気のスポーツ自転車のブースがあったので興味を持って見ていると、ブース内で「オーダーメイドフレームがすごい」という話をしていました。私は展示自転車を見るふりをして聞き耳を立てていると、オーダーメイド自転車の世界に“神様”のような存在の人がいて、そのスゴ技の話をしていたんです。
その人の技術は本当に神がかっていていました。それまでの私は、心のどこかで自転車はどれも同じようなものだと思っていたんです。しかし神様の自転車はまったく異なり、衝撃的でした。「こんな自転車が作りたい」と心の底から思ったんです。
初めてやる気に火が付いた瞬間です。数日後、私はその神様のところへ行って「弟子入りさせてください」と頼みました。「お金はいらないから技術を勉強させてください」と一生懸命に頼んだのです。しかし断られました。それでも私はあきらめきれず、何度も何度も頼みました。すると「日曜日だけならいい」と許可が下りたのです。
――その方が松田さんの師匠なんですか?
そうです。日曜日になる度に、私は必死の覚悟で神様のところに通いました。30歳を迎える少し前のことでした。自分の店で予習をして、たとえば「溶接がうまくいかないのはなぜですか」と問い、「火が弱いんじゃないか」というようなアドバイスをもらうと、帰ってから復習をしていました。
そんな日々が何カ月か続いたんです。ですから私の師匠はその神様です。もっとも「大したことは教えていない」と神様は言いますし、名前を出すと叱られるので言えません。でもオーダーメイド自転車作りの真髄とノウハウを教えていただいた大恩人なんです。
――御社のオーダーメイド自転車の特徴を教えてください。
お客さんはみんな何らかの目的を持って注文に来ます。サイクリングをする人だったら長時間乗っても疲れないものがほしいとか、街乗りをする人だったら快適に気持ちよく走りたいとか、競輪選手だったら競走に勝ちたいとか。ですから私は作るのは自転車ですが、売るのは満足だと思っています。
それぞれのお客さんに満足していただける自転車。それがうちのオーダーメイド自転車の特徴です。はっきり言って、オーダーメイド自転車は値段がひとケタ高いです。それでも買っていただけるお客さんを失望させてはいけないのです。
「松田さんだからこそお願いしたい」といったお客さんの声を聞くとすごく嬉しくなります。ますますお客さんの期待に応える安全と品質を提供しなければという使命感が湧き上がります。
――競輪選手にも人気が高いそうですね。
競輪選手は今、全部で2,200人くらいいて、そのうちの約5%に当たる120人くらいがうちの自転車に乗っています。選手たちが乗る自転車ブランドとしては気になる存在だと言えると思います。
――競輪の世界に参入するのはとても難しいと聞きます。
自転車の世界で最も高い技術が求められるのが競輪です。競輪選手の自転車を作るにはJKA(競輪やオートレースに関わる人、施設、機材などを管理する公益財団法人)に登録をする必要があるのですが、はじめは門前払いをされました。当時の競輪場には1万人ほどの観客がいたので、「競技中に万が一、自転車が壊れたら責任を取れるのか」と担当者に言われたんです。
それで仲間の同業者たちと共同で、3億円の団体製造物賠償責任保険をつくりました。保険をつくったことも重要ですが、言うまでもなくしっかりとした技術を持っていることが登録の第一条件です。厳しい試験をパスしなければ登録業者にはなれないんです。
――御社は最初から高い技術を持っていたんですか?
もちろんそんなことはありません。努力して少しずつ技術を高めていったんです。その意味でも神様の存在は私にとってありがたいものでした。
例えば自転車では「精度」が重要です。前輪と後輪が一直線上に並び、誤差が少ない状態を精度が高いと言います。うちは今、その誤差を0.5mm以内に収めることができます。 最初は1mm以内にすることも難しかったので、これなどは努力の結晶と言えると思います。
――松田さんがモノ作りに取り組むうえで大事にしていることは何ですか?
お客さんには「自転車を通して満足を売る」という気持ちでやっています。自転車の設計には、先ほど言った精度の他に「強度、性能,機能、デザイン、値段]という6つの要素があります。このうち機能とデザインと値段は目に見えるものです。普通の自転車メーカーはこの3つを重要して自転車を設計します。
うちの場合、重要視するのは目に見えない要素である精度、強度、性能です。強度はどれだけの負荷にどれだけの時間耐えられるかを測る指標。精度は前輪と後輪が一直線に並んで誤差がない状態になっているかの指標。これは走行抵抗に影響します。性能は設計に関係するもので、文字どおり自転車そのものの性質です。これらは目に見えません。目に見えない要素を極限まで高めることで、お客さんに満足してもらえるように努力しているんです。
――目に見えないところにこだわるのですね。
そうですね、そこが競技用自転車の本質だと思いますから。デザイン重視で作ったほうが金儲けには近道かもしれません。でもお客さまはバカではないので、手を抜いた自転車が10年も20年も売れ続けるわけがないと思います。結局は誠実にやっているほうが成功に近づけるのではないかと思いたいんです。まあ、自分でもそんなことをする職人はバカだなと思っていますが。
――御社の自転車に乗る競輪選手に何を望みますか?
怪我をしないこと。それから、もちろん勝利を望みます。重賞レースの決勝に出る選手には、私は電報を送ります。するとそのお礼と報告をしてくれることがあるのですが、やっぱりうれしいものですね。その時はもっと良い自転車を作ろうという気持ちにもなります。
――海外の自転車コンテストにも出品していますね。
コンテストで賞をもらった時は、やってきて良かったと思います。以前はNAHBS(ノース・アメリカン・ハンドメイド・バイシクル・ショー)で会長賞をいただきました。EBDC(ヨーロッパ・バイシクル・デザイン・コンテスト)やミラノサローネにも出展して好評を博しました。やはり人はほめられたり、喜ばれたりするとやる気になるものだと思います。
――今後の目標を教えてください。
マツダ自転車工場の社長は息子に譲りましたが、私は会長として、1人の職人としてこれからも良い自転車をお客さんに提供していきたいと思っています。
私の自転車に乗ってくれる競輪選手もそうですが、わざわざ店に来ていただいたお客さんをがっかりさせたくないのです。商業主義の強い自転車メーカーではなく、当社を選んでくれたお客さんには、必ず満足してもらいたいという気持ちでやってきました。その気持ちはこれからも変わりません。今はただ、自転車屋を続けてきて本当に良かったなあと思っています。
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この記事を担当した人
八鍬悟志
複数の出版社に12年勤めたのち、フリーランスライターへ。得意ジャンルはIT(エンタープライズ)と国内外の紀行文。特にITに関してはテクノロジーはもちろんのこと、人にフォーカスしたルポルタージュを得意とする。最近はハッカソンイベントなどを取材する機会も多い。