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天野義廣(あまの・よしひろ)
1949年生まれ。福井県勝山市出身。高校教員、大学非常勤講師を経て、60歳よりブレイクダンスを始める。 普段は農業を営み、ダンススタジオ「 advanstar (アドバンスター)」に通いながらダンスを学ぶ。年齢を感じさせない精力的な姿はブレイクダンス界を中心に注目が広がり、すでに地元メディアなどで多く取り上げられている。
Instagram : amanomore
本日はよろしくお願いいたします!
いつもインスタグラムで天野さんのダンスを見ています。ダイナミックな動きに果敢に挑戦される姿などを見て、元気をもらっています。
ありがとうございます。インスタグラムにアップしている振りはすべて自分で考え、音楽も作曲アプリを使って自分で作っているんです。
すべてオリジナルなんですね。すごいです!頭の中にあるイメージをアウトプットして、「やりたいことをやっている」姿はとても輝いて見えます。
ところでブレイクダンスは60歳から始めたそうですが、もともと60歳になったらやろうと決めていたのですか?
実はその前から興味があり、動画などを見て我流でやっていました。ただ以前は単身赴任をして働いていたので、仕事をしながら家のこともやり、その上ダンスの練習をするのは疲れるものでモチベーションが続かないこともあったんです。
それで自分の時間が欲しいと思って勤め先を早期退職し、地元の勝山市に戻ってきました。そんな折に東京で活動していたダンサーの中村剛さん(※)が、私と同じ街に帰郷され、近くでダンスレッスンを始められました。
ひとりで練習していると細かいところがわからないこともあったので、習いに行き、そこから本格的に始めたんです。
※中村剛(なかむら・たけし)
ダンサーネームは「FLY」。福井県内にて、ダンススタジオ「 advanstar 」を経営するほか、世界トップレベルのブレイクダンサーチーム「FOUNDNATION」に所属し、日本内外で活躍する。
ということは、もともとブレイクダンスのことは知っていたのですね。どのようにして出会われたのでしょうか?
それを話すには私の少年時代を語るところから始めねばなりません(笑)。
小学4年生の時、体操の授業で上級生が「空中転回」を実演してくれたんです。手を使わずに助走から空中で回転する技ですが、それを見て「人間ってああいうことができるのか」ととても感動しました。今でも鮮明に覚えています。
なぜそんなに心動かされたかというと、私はむかし体が弱く、しょっちゅう保健室に行くような子どもでした。だから自分と正反対に、はつらつと体を動かす人に憧れを抱いていました。
小学生の頃の天野さん
空中転回を見て以来、私はアクロバットな動きをする演舞に興味を持つようになり、中国の雑技団やサーカスを見るようになりました。アメリカ映画の『サタデーナイトフィーバー』を見てからはダンスもいいなと思うようになりました。
ブレイクダンスとの出会いは、テレビで見たストリートダンス紹介の番組が最初だったと思います。「こんなのもあるんだ!カッコイイなあ」と惹かれました。
幼い頃からの憧れがめぐりめぐって、今の「ブレイクダンサー天野義廣」を作ったのですね。
ブレイクダンスといえば激しい動きで怪我をするのではないかというイメージがあります。60歳という年齢から始めることに不安はなかったのですか?
それはまあムチャクチャなことはしませんから(笑)。怪我をしてしまうとやりたいと思っていたことがそもそもできなくなってしまいますよね。できる範囲でやっていこうと思ってスタートを切りました。
また先ほどお話したように、子どもの頃は虚弱で、輝かしい青春時代を送っていなかったものですから、「このままでは人生終われない」という気持ちが強くありました。
自分では「不発の青春」と呼んでいますが、それをこの年になってなんとかして、人生のつじつまを合わせようとしているわけですよ(笑)。
素敵な考えです!つまり子どもの頃の劣等感をバネにしているんですね?
そうですね。「憧れ力」という言葉も自分の中でキーワードにしています。「理想に近づくんだ!」という気概でやっています。
天野さんはブレイクダンスでどんなことをしていきたいと考えているのですか?
個性を出していきたいです。ブレイクダンスは数あるダンスの中でもオリジナリティを訴えていきやすいものだと思っています。
高校教員時代。この頃は「教師であるから」と世間の目を気にし、自分の人生を生きていないような気がしていたという
実は50代の頃に女性ダンサーが主宰するヒップホップ教室に通っていたこともあるんですが、そこでは先生の考案した振りを完全に覚えることが目標だったんですね。でも、それでは物足りなかったんです。自分らしいものを創っていきたかった。
もちろんこの教室ではダンスの基礎的なことをたくさん学べました。それを踏まえて次のステージとしてもっと体全体を使ってやりたいなと思ったのです。今は様々な動きを中村剛先生に提案しながらやっています。
思いついた「振り」をすぐ試せるよう、自宅ではいつもシューズを履いている
ブレイクダンスを始めて10年余りとのことですが、「やって良かった」と感じることはどんなことですか?
1つは仲間ができたこと、もう1つは人前で踊れるようになったことです。中村先生との出会いから色んな人との縁ができました。
ダンススタジオでは週に1回子どものクラスに入れてもらっていましたが、子どもでも彼らはとてつもない動きをするんですね(笑)。たくさん刺激を受けました。子どもたちも私を受け入れてくれて一緒に切磋琢磨していきました。
現在は月1回の個人レッスンですが、訪れるとサイファー(輪になって交互に踊ること)やチームを組んでバトルをする時に自然に仲間に誘ってくれます。仲間がいることは心強く、楽しいです。
踊りを披露する機会にも恵まれました。イベントに参加すると、単なる発表にとどまることなく交流へとつながっていくのがいいなと感じています。
交流がまた新たな交流を呼び、世界的に有名なダンサーにレッスンしてもらえるなど、技に磨きがかかる以上に世界が広がりました。
生活も大きく変わったのでは?と思いますが、いかがでしょうか。
そうですね。スマホを活用する道が開けたは大きかったです。前までの自分では動画を撮ったりSNSをやったりするなんてことは全く考えられなかったです。
ですが中村先生をはじめ若い人との関わりが、私に新しいことを始めさせてくれました。
今ではインスタグラムに月2回、一回一回新しい技を入れて投稿するように習慣づけています。キャプションには英語でのメッセージも加えています。驚いたことにコメントをくださる方の多くは海外の方なんです。
このように反応をくださると励みになりますし、何よりファイトが湧きます!
2017年よりインスタグラムを始める
自ら発信する手段を持てたのは、天野さんにとって新境地だったのですね。
スマホは図書館のような、知識を得るためのものだと思っていました。しかしこれを使って、世界へ自分の存在を発信することができた。全く予想しなかった晩年です(笑)。
晩年と言わず、今後も元気いっぱいに活躍してほしいです!
最後に天野さんの夢を聞かせてもらえますか?
少年時代の自分に「カッコイイ!」と言ってもらえるような自分になりたいです。 自分の頭にある「とんだりはねたりしている姿」を出して自分にしかできない踊りを編み出していきます。
そして今の子どもたちにも「この人すごいなあ」とうならせたい!
現実には私は71歳ですが、年齢のことなんてもうどこかに置いてきました(笑)。
これから先、どこまでやれるか自分でもワクワクしています。
まだまだ青春ですね!ありがとうございました。
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この記事を編集した人
ほんのまともみ
やる気ラボライター。様々な活躍をする人の「物語」や哲学を書き起こすことにやりがいを感じながら励みます。JPIC読書アドバイザー27期。