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親子で学びたい。我が子に伝えたい。そんな気持ちになれる、やる気が出てくる世界の言葉。歴史上の偉人や名著からピックアップ。その言葉はどうして出てきたのか、お伝えしていきます。
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いつも成績上位のお子さんなど、「別にこれくらいでいいし、ライバルいないとやる気出ないし」などと言うことがあるかも知れません。
でも、もっと将来に向けて、もっと上を向いてがんばって欲しい。子どもの背中を押すための言葉です。
I love the feeling that the only person I’m competing with is me.
私は自分と競うたった一人の人間が自分だというその感覚が大好きなの。
この名言は、「黒いガゼル」「黒い真珠」とも呼ばれた奇跡のスプリンター、ウィルマ・ルドルフの言葉です。
ウィルマ・ルドルフは、1940年6月23日にテネシー州のスラム街で 22人の子供のうちの20番目の子どもとして、体重約2キロの未熟児で生まれました。4歳の時に猩紅熱と肺炎の合併症に掛かり、左足の小児麻痺で歩けなくなり、補助具の装着が必須となりました。
ウィルマの診断は「一生歩けないでしょう」という酷いものでしたが、母は「大丈夫、歩けるようになるわ!」と言い、ウィルマは母の言うことを信じました。
母は、貧しい黒人でも診てくれる80km先の病院まで毎週2回、ウィルマを抱いて連れて行きました。
医師の医学療法的指導に基づいて、ウィルマの両親ときょうだい達は彼女の足の補助具を外しては交代で足をマッサージしました。そして6歳、ウィルマは片足でぴょんぴょん跳ぶことができるようになり、8歳までには補助具があれば歩き回れるようになりました。
11歳の時には矯正靴を履いてきょうだい達と毎日のようにバスケットボールをして遊び、12歳で脚は完治しました。スポーツの才能に秀でていたウィルマはスポーツ選手になることを決意し、中・高はバスケットボールで活躍します。高校時代には州記録を得点し、チームを州のチャンピオンに導きました。
その後、大学のコーチとの出会いがあって、ウィルマは陸上競技を始めました。高校生ながら大学レベルで競い、1956年のオリンピック大会に出場、4×100リレーで銅メダルを獲得。4年後、1960年のローマオリンピックでは金メダルを手に入れようと決意、3つの金メダルを獲得し、少なくとも3つの世界記録を打ち立てました。アメリカ人女性として、黒人女性として、史上初の短距離3種目制覇で、「世界最速の女性」との称号が与えられたのです。
ウィルマは周りに敵なし、一人勝ちが想像できるような状態でも、粛々と練習をこなし、高みを目指し、極めていきました。それによって、アメリカ人女性初、黒人女性初のオリンピック金メダル3つという快挙を成し遂げました。
周りにライバルがいないことで慢心しそうなところを「ライバルは自分だけ」という考えを持ち、粛々と練習を続け、頂点に立ったウィルマ。そんな彼女ならではの言葉です。
学年トップ、模試ではいつでも好成績、ちょっとくらい手を抜いても大丈夫…なんて慢心が顔を覗かせがちなお子さんが、現状に甘んじることなくさらなる高みを目指してもらうために、参考になるかと思います。
参考文献
https://www.womenshistory.org/education-resources/biographies/wilma-rudolph
https://en.wikipedia.org/wiki/Wilma_Rudolph
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィルマ・ルドルフ
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この記事を書いた人
天久 美海(あめく みう)
中学受験にて私立女子中高一貫校に入学、6年間を過ごす。
大学受験にて医療系学部に進学、在学中は勉学の傍、家庭教師として小学生から中学生までの多数を指導。
海外旅行を好み、卒後、数年働いて後にはカナダに半年留学。
医療系に長らく従事し、現在は、医療、教育、語学ジャンルの執筆を主としたワークスタイル。
個性が全く違う、それぞれ可愛い二人の小学生のママでもある。
悩みをさらっとでも打ち明けられる親以外の大人がいた事で救われた過去から、自身も誰かのそういう大人になることを心に誓い、細々ながら活動中でもある。